五円で行け!」
「十円やって下さいよ」
「五円だと言ったら、五円だ!」
「じゃ、八円にしときましょう」
「五円!」
「じゃ、七円!」
「行けと言ったら行け! 五円だ!」
「五円じゃ行けませんよ!」
「何ッ? 行かん? なぜ行かん?」
「行かんと言ったら行かん!」
「行けと言ったら行け!」
 そんな問答をくりかえしたあげく、掴み合いの喧嘩になった。運転手は車の修繕道具で彼の頭を撲った。割れて血が出た。彼は卒倒した。
 運転手は驚いて、彼の重いからだを車の中へかかえ入れた。
 そして天下茶屋のアパートの前へ車をつけると、シートの上へ倒れていた彼はむっくり起き上って、袂の中から五円紙幣を掴み出すと、それをピリッと二つに千切って、その半分を運転手に渡した。そして、何ごともなかったように、アパートの中へはいって行った。

     二

 この話を、私は武田さん自身の口からきいた。むろん武田さんの体験談である。武田さんが新進作家時代、大阪を放浪していた頃の話だという。
 昭和十五年の五月、私が麹町の武田さんの家をはじめて訪問した時、二階の八畳の部屋の片隅に蒲団を引きっぱなして、枕の上に大きな顎をのせて腹ばいのまま仕事していた武田さんはむっくり起き上って、机のうしろに坐ると、
「いつ大阪から来たの? 藤沢元気……? 大阪はどう? 『カスタニエン』という店知ってる?」
 などときいたあと、いきなり、
「――僕が大阪にごろごろしてた時の話だが……」
 と、この話をしたのである。
 そして、自分からおかしそうに噴きだしてのけ反らんばかりにからだごと顔ごとの笑いを笑ったが、たった一つ眼だけ笑っていなかった。そこだけが鋭く冷たく光っていた。
 私もゲラゲラと笑ったが、笑いながら武田さんの眼を見て、これは容易ならん眼だと思った。その眼は稍《やや》眇眼《すがめ》であった。斜視がかっていた。だから、じっとこちらを見ているようで、ふとあらぬ方向を凝視している感じであった。こんな眼が現実の底の底まで見透す眼であろうと、私は思った。作家の眼を感じたのだ。
 ちょっと受ける感じは、野放図で、ぐうたらみたいだが、繊細な神経が隅々まで行きわたっている。からだで掴んでしまった現実を素早く計算する神経の細かさ――それが眼にあらわれていると思った。
 その部屋には、はじめは武田さんと私の二人切りだったが、暫くす
前へ 次へ
全12ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング