な声を出した。
「渡すのを忘れたんだ。君、あの人の名前知ってる?」
「いや、知らん。あんたが知らんもん、俺が知る道理がないやろ」
「それもそうだな。そう言えばたしかに、トランクを渡すのを忘れたのはうかつだったが、名前をきくのを忘れたのも、うかつだったな」
 白崎はそう呟いた。
 やがて、汽車が大阪駅につくと、白崎は赤井と別れて上本町のわが家に帰って行った。
 ところが、帰ってみると、かつてのわが家の姿はもうそこになく、バラックの入口に「白崎」という申訳の表札の文字が、鈍い裸電燈の明りに、わずかにそれと読めた。
「やあ、うちもやられたんですか」
「やられたよ。田舎へ引っ込もうと思ったんだが、お前が帰って来てうろうろすると可哀想だと思ったから、とにかく建てて置いたよ」
 それが、父一人子一人の、久し振りの挨拶だった。
「荷物はそれだけか」
「少ないでしょう?」
「いや、多い。多すぎる。どうも近所に体裁が悪いよ。もっとも近所といっても、焼跡ばかしだが……」
「そう言われるだろうと思って、大阪駅の浮浪者に、毛布だとか米だとかパンだとか、相当くれてやって来たんですよ」
「ほう、そいつは殊勝だ」

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