井はさすがに記憶があった。
「やア、その節はいろいろと……」
 赤井は応召前、佐川の世話で二三度放送したことがあった。
「もう、落語はおやりにならないんでやすか」
「へえ。もうさっぱりやめました。やる気になれまへんねッ」
「はあ、そうでやすか。しかし、惜しいですな。どうです、一度放送してみませんか。新作ものを一つ……」
 仕事に熱心な佐川は、新しい芸人を見つけると、貪欲な企画熱をあげるのだった。頼み方はおだやかだが、自分の企画に悦に入っている執拗さがあった。
「いや、お言葉はありがたく頂戴しまっけど、どうも、人を笑わすいう気になれまへんので……」
 赤井がそう断ると、傍で聴いていた白崎はいきなり、
「君、やり給え! 第一、僕や君が今日の放送であのトランクの主を見つけて、かけつけて来たように、君の放送を聴いて、どこかにいる君の奥さんやお子さんが、君に会いにかけつけて来るかも知れないぜ」
 そう言うと、赤井の眼は急に生々と輝いた。
「それもそやなア。ほな、一つ佐川さんにお願いしまひょかな」
「そうでやすか。じゃ、上へ行って打ち合わせましょう」
 赤井とミネ子が四階の演芸部の部屋へ上って行くのと同時に、杉山節子が第一スタジオから出て来た。
「やア」
「あらッ」
「トランク持って来ました」
「まア」
 節子は思わず白崎の手を握った。甘い歌を歌ったあとなので、そんな動作が自然に出たのだろうか。たしかに仕事のあとで昂奮していた。節子は生々と頬を染めながら、
「このトランクには、音楽会に要るイブニングや楽譜がはいってましたの。これから、音楽会へも出られますわ。ほんとうに、ありがとうございました。ほんとにお世話ばかし掛けて……」
「いやア。お礼いわれるほどの……。第一、僕が京都駅でうっかりしてたのが悪かったのですよ。しかし、もし僕にお礼して下さるのなら、これからあなたの音楽会の切符を送って下さいませんか。僕はそそっかしいので、あなたの音楽会の広告が出ていても、うっかり見逃しそうですから……」
「はあ。でも、歌はおきらいなのでしょう?」
 微笑していた。
「いや、あれは取消しです。速記録から除いて貰いましょう。本員の失言でした」
「まア」
「あはは……。僕いま、親父の出している変てこな雑誌の編集を手伝っていて、実は音楽どころじゃないんです」と、白崎はまたまずいことを言いだしたが、しか
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