、その人は京都に住んでいる声楽家だというだけで、まるで見当がつかなかった。
 そして、月日が流れた。

      明日

 大阪駅の前に、ずらりと並んだ靴磨きの群れ、その中に赤井はミネ子とささやかな靴磨きの店を張っていた。
 大阪中の寄席は殆んど焼けてしまっていたので、二流の落語家の赤井にはもう稼げる寄席はなかったし、よしんば寄席があっても、もう落語は語りたくなかった。だから、二人の口を糊するには、靴磨きにでもなるか、市電の切符を売って歩くかの二つだった。靴磨きは、隊におった時毎日上官の靴を磨かされていたので、経験がある。一つには、大阪で一番雑閙のはげしい駅前におれば、ひょっとして妻子にめぐり会えるかも知れないという淡い望みもあった。
 ある日、いつものように駅前にうずくまっていると、いきなりぬっと横柄に靴を出した男がある。
「へい」
 と、磨きだして、ひょいとその客の顔を見上げた途端、赤井はいきなり起ち上って、手にしていたブラシで、その客の顔を撲った。かつての隊長だったのだ。
「おい、何をするか。乱暴な」
 隊長は驚いたが、
「あッ、貴様は赤井だな」
 と判ると、いきなり胸倉を掴んだ。
「おや、やる気やな。面白い! 撲れるものなら撲ってみろ! しかし、言っとくが、もし、俺の身体に指一本でも触れてみやがれ……」
 赤井は、なんだ、なんだと集まって来た弥次馬を見廻しながら、
「この人達に、貴様が戦争の終った日に、何と何とをトラックで運ばせたか、一部始終ばらしたるぞ!」
 そう言うと、隊長は思わず真赧になって、唸っていたが、やがて、
「覚えとれ!」
 そして、そわそわと逃げるように立ち去った。顔に靴墨の跡を残したまま。
「阿呆! 貴様のような阿呆のこと、いつまでも覚えてられるか。あはは……」
 赤井はサバサバとした笑いを、久し振りに笑った。
 やがて、一日の仕事が終って、日が暮れると、赤井はミネ子の手をひいて、南炭屋町のわが家の焼跡に作った壕舎へ帰って行った。
 昼間の出来事で溜飲は下がったものの、しかし、夜の道は暗く寂しく、妻や子は死んでいるのか生きているのかと思えば、足は自然重かった。
 途中にあるバラックから灯が洩れ、ラジオの歌が聴こえていた。
「あ、ラジオが聴こえてる」
 と、ミネ子は立ち停った。歌は「荒城の月」だった。
 ミネ子のつきあいで聴いているうちに、
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