である地蔵祭が好きであった。私の生まれた上町辺が地蔵さんの非常に多い土地であったせいもあるだろうが、とにかく一町内、一路地、一長屋毎に一つの地蔵さんを持っていて、それを敬い、それを愛し、ささやかな信仰の対象物として大切に守りつづけ、そして一年一回、七月二十四日にそれぞれの地蔵さんを中心に一町内、一路地、一長屋の祭典を行ったということは、どれだけ大阪の庶民の生活をうるおいあるものとしたか計り知れないくらいである。ところが、敵機は無残にもこれらの愛すべき地蔵さんを破壊しようとした。
 しかし、私はたとえば火除地蔵というものを知っている。つねに火を避けて来た地蔵さんであるが、この地蔵さんは果して焼夷弾の火を避けることができたかどうか、それを私は知りたいと思い、あちこち尋ねまわっているうちに、最近ゆくりなくも火除地蔵健在の事実を知った。
 それは天王寺区○○町の田村克巳さんの邸宅のお庭にある地蔵さんで「阿砂龍石地蔵尊」といい、田村さんの仏壇の抽出に秘められている一巻の古い軸には、この地蔵さんが模写されていて、「宝亀五年三月二十四日聖徳太子御直作」と肩書があり、裾書に「鈴木町」とある。鈴木町というのは十年ばかり前まで田村さんが代々住んでおられた内久宝寺町の古い町名で、田村さんのお屋敷は代官の金蔵があった跡である。
 この地蔵さんは矩形の石に浮彫をしたもので、底が平らでないから、そのままでは佇立できず、あとから土台石をつけたものらしく、恐らく土中に埋《うず》めていたものを発掘して、鈴木町の田村邸に安置され、のち田村さんと共に○○町へ移ったものであろう。聖徳太子作で想い出すのは、六万体地蔵のことで、天王寺の××町の真光院にやはり聖徳太子作の地蔵さんが二体あり、これは聖徳太子が六万体の石像をお刻みになって、天王寺を中心とする地の中へ埋められたのを発掘したものであり、田村さんの地蔵さんと同じ浮彫である所を見ると、恐らく田村さんの地蔵も六万体地蔵の一つであろう。
 ともかく、この地蔵さんは火除地蔵とされて来たのだが、空襲の際田村さんのお邸は隣の家まで火が来たのに焼けず、無論地蔵さんも助かったのである。この地蔵さんは浮彫のせいか、目鼻立ちが明瞭でなく、ためにその表情はさまざまに変化して見えるのだが、空襲の夜、隣家まで火が来た時、地蔵さんの表情は急に怒っているように見えたと、田村さんの令嬢で、二十一歳の若さでありながら、二代目志賀山勢鶴を名乗る志賀山流舞の[#「志賀山流舞の」は底本では「忘賀山流舞の」]名取である尚子さんは、私に語った。因みに大阪で志賀山流の名取は尚子さん唯一人、尚子さんは放送局の文芸部へ勤められる余暇を、舞の手の記録に捧げておられる。志賀山流の伝統保存のためであることは言うまでもない。――こんな話を、私は三ちゃんに語ったのである。



底本:「定本織田作之助全集 第八巻」文泉堂出版
   1976(昭和51)年4月25日発行
   1995(平成7)年3月20日第3版発行
初出:「週刊朝日」
   1945(昭和20)年4月
入力:桃沢まり
校正:小林繁雄
2007年4月25日作成
2007年8月18日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング