やがて競馬が小倉《こくら》に移ると、1の番号をもう一度追いたい気持にかられて九州へ発《た》った。汽車の中で小倉の宿は満員らしいと聴いたので、別府《べっぷ》の温泉宿に泊《とま》り、そこから毎朝一番の汽車で小倉通いをすることにした。夜、宿へつくとくたくたに疲《つか》れていたので、寺田は女中にアルコールを貰ってメタボリンを注射した。一代が死んだ当座寺田は一代の想い出と嫉妬に悩《なや》まされて、眠れぬ夜が続いた。ある夜ふとロンパンの使い残りがあったことを想い出した。寺田は不眠の辛《つら》さに堪えかねて、ついぞ注射をしたことのない自分の腕へこわごわロンパンを打ってみると、簡単に眠れた。が、眠れたことより、あれほど怖れていた注射が自分で出来て、しかも針の痛さも案外すくなかったことの方がうれしく、その後|脚気《かっけ》になった時もメタボリンを打って自分で癒《なお》してしまった。そしてそれからは注射がもう趣味《しゅみ》同然になって、注射液を買い漁《あさ》る金だけは不思議に惜しいと思わず、寺田の鞄《かばん》の中には素人《しろうと》にはめずらしい位さまざまなアンプルがはいっていたのだ。注射が済んで浴室へ行
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