る。このまま静脈に刺《さ》してやろうかと、寺田は静脈へ空気を入れると命がないと言った看護婦の言葉を想い出し、狂暴に燃える眼で一代の腕を見た。が、一代の腕は皮膚《ひふ》がカサカサに乾《かわ》いて黝《あおぐろ》く垢《あか》がたまり、悲しいまでに細かった。この腕であの競馬の男の首を背中を腰を物狂おしく抱《だ》いたとは、もう寺田は思えなかった。はだけた寝巻《ねまき》から覗《のぞ》いている胸も手術の跡が醜《みにく》く窪《くぼ》み、女の胸ではなかった。ふと眼を外《そ》らすと、寺田はもう上向けた注射器の底を押《お》して、液を噴《ふ》き上げていた。すると、嫉妬は空気と共に流れ出し、安心した寺田は一代の腕のカサカサした皮をつまみ上げると、プスリと針を突き刺した。ぐっと肉の中まで入れて液を押すと、間もなく薬が効いて来たのか、一代はけろりと静かになり、死んだように眠ってしまったが、耳を澄《す》ませるとかすかな鼾《いびき》はあった。
 それから一週間たったあの夕方、治療に使う枇杷の葉を看護婦と二人《ふたり》で切って籠《かご》に入れていると、うしろからちょっとと一代の声がした。振《ふ》り向くと、唇の間からたらんと舌を垂れ、ウオーウオーとけだもののような声を出して苦悶《くもん》していた。驚いて看護婦が強心剤のアンプルを切って、消毒もせずに一代の胸に突き刺そうとしたが、肉が固くてはいらなかった。僕《ぼく》にやらせろと寺田が無理矢理突き刺そうとすると、針が折れた。一代の息は絶えていた。歳月がたつと、一代の想出も次第に薄れて行ったが、しかし折れた針の先のように嫉妬の想いだけは不思議に寺田の胸をチクチクと刺し、毎年春と秋競馬のシーズンが来ると、傷口がうずくようだった。競馬をする人間がすべて一代に関係があったように思われて、この嫉妬の激しさは寺田自身にも不思議なくらいであった。ところが、そんな寺田がふとしたことから競馬に凝りだしたのだから、人間というものはなかなか莫迦にならない。
 寺田は一代が死んで間もなく史学雑誌の編輯をやめさせられた。看病に追われて怠《なま》けていた上、一代が死んだ当座ぽかんとして半月も編輯所へ顔を見せなかったのだ。寺田はまた旧師に泣きついて、美術雑誌の編輯の口を世話してもらった。編輯員の二人までがおりから始まった事変に召集《しょうしゅう》されて、欠員があったのだ。こんどは怠けずこ
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