勧善懲悪
織田作之助

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)縮《ちぢみ》の

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(例)代々|鎗《やり》一筋の家柄で

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(例)※[#二の字点、1−2−22]
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       一

 ざまあ見ろ。
 可哀相に到頭落ちぶれてしまったね。報いが来たんだよ。良い気味だ。
 この寒空に縮《ちぢみ》の単衣《ひとえ》をそれも念入りに二枚も着込んで、……二円貸してくれ。見れば、お前じゃないか。……声まで顫《ふる》えて、なるほど一枚ではさぞ寒かろうと、おれも月並みに同情したが、しかし、同じ顫えるなら、単衣の二枚重ねなどという余り聴いたことのないおかしげな真似は、よしたらどうだ。……それに、二円貸せとは、あれは一体なんだ? 同じことなら、二千円貸せ……と、大きく出るんだね。だいいち、その方がお前らしいよ。
 もともとヤマコで売っていたお前の、そんな惨めな姿を見ては、いかな此のおれだって、涙のひとつも……いや、出なんだ。出るもんか。……随分落ちぶれたもんですね、川那子《かわなご》さん、ざまあ見ろ。ああ、良い気味だ……と、嗤《わら》ってやった。驚きもしなんだ。なに、驚くもんか。判っていたんだ。こう成るとは、ちゃんと見通していたのだ。
 良いか。言ってやるぞ。……お前から手を引いた時、おれは既にお前の「今日ある」を予想していたのだ。だからこそ、手を引いた。お前の方では、おれを追い出してやったと、思っているらしいが、違う。おれの方から見限ったのだ。……あいつはもう駄目だと、愛想を尽かしたのだ。いまに落ちぶれやがるだろうと胸をわくわくさせて、この見通しの当るのを、待っていたのだ。案の定当った。ざまあ見ろ。
 ところで、いま、おれが使った此の「今日ある」という言葉を、お前は随分気に入って、全国支店長総会なんかで、やたらに振りまわしていたね。そんな時、お前は自分ひとりの力で、「今日ある」をもたらしたような口利いていたが、聴いていて、おれは心外……いや、おかしかった。なにが、お前ひとりの力で……。いまとなっては、いかな強情なお前も認めるだろうが、みなおれの力だった……。例えば、支店長募集のあの思いつきにしろ、新聞広告にしろ、たいていの智慧はみな此のおれの……。まあ、だんだんに、聴かせてやろう。

       二

 いつだったか、……いや、覚えている、六年前のことだ、……「川那子丹造の真相をあばく」という、題名からして、お前の度胆を抜くような本が、出版された。
 忘れもせぬ、……お前も忘れてはおるまい、……青いクロース背に黒文字で書名を入れた百四十八頁の、一頁ごとに誤植が二つ三つあるという薄っぺらい、薄汚い本で、……本当のこともいくらか書いてあったが、……いや、それ故に一層お前は狼狽《ろうばい》して、莫迦《ばか》げた金と人手を使って、その本の買い占めに躍起となった。
 むかし新聞屋(……というより外に適当な言葉も見当らぬが、お望みならば、新聞社の社長と言いかえても良い……)をしていた頃、さんざ他人の攻撃をして来た自分が、こんどは他人より手ひどく攻撃されるという、廻合せの皮肉さに、すこしは苦笑する余裕があっても良かりそうなものだのに、お前はそんな余裕は耳掻きですくう程も無く、すっかり逆上してしまって、自身まで出向いて、市中の書店を駈けずりまわり、古本屋まで買い漁《あさ》ったというじゃないか。
 思えば、気の小さい、そんな男のことなどをあばいた本など、たいして売れもしなかっただろうと、おれは思っていたが案に違って、誇張めいた言い方をすると、瞬く間に版を重ねて、十六版も出たという。お前は知るまいが、初版は千五百部で以後五百部ずつ版を重ねたのだ。
「――なぜ、こんな本が売れるのでしょう?」
 と、出版屋も不思議がったくらいだが、不思議でもなんでもない。お前が買うから売れたのだ。出る尻から本が無くなるので、出版屋は首をひねりながら、ともかく増刷していたのだ。増刷の本が出ると、またお前が買い占める。出版屋はまた増刷する。……この売りと買いの勝負は、むろんお前の負けで、買い占めた本をはがして、包紙にする訳にも思えば参らず、さすがのお前もほとほと困って挙句に考えついたのが「川那子丹造美談集」の自費出版。
 しかし、これはおかしい程売れず、結果、学校、官庁、団体への大量寄贈でお茶を濁すなど、うわべは体裁よかったが、思えば、醜態だったね。だいいち、褒めるより、けなす方が易しいのでん[#「でん」に傍点]で、文章からして「真相をあばく」の方が、いくらか下品にしろ、妙味があった。話の序でだから、この一部をそこへ挿むことにしよう。
 ――もともと出鱈目《でたらめ》と駄法螺《だぼら》をもって、信条としている彼の言ゆえ、信ずるに足りないが、その言うところによれば、彼の祖父は代々|鎗《やり》一筋の家柄で、備前岡山の城主水野侯に仕えていた。
 彼の五代の祖、川那子満右衛門の代にこんなことがあった……。
 当時満右衛門は大阪在勤で、蔵屋敷の留守居をしていた。蔵元から藩の入用金を借り入れることが役目である。
 ところが、ある年の暮、いよいよ押し詰まって来たのにかかわらず、蔵元町人の平野屋ではなんのかんのと言って、一向に用達してくれない。年内に江戸表へ送金せねば、家中《かちゅう》一同年も越せぬというありさま故、満右衛門はほとほと困って、平野屋の手代へ、品々追従賄賂して、頼み込んだが、聞き入れようともせず、挙句に何を言うかときけば、
「――頼み方が悪いから、用達出来ぬ」
 との挨拶だった。
「――これは異なることを承る。拙者の頼み様がよろしからずとは、何をもって左様申されるか」
 と、満右衛門が詰め寄ると、
「――貴方は、御主人の大切な用を頼むのに、手をお下げにならん。普通なら、両手を爾《しか》と突いて、額を下げて頼むところでしょうがな……」
 と言われた。途端に、満右衛門は頭を畳に付けて、
「――田舎者の粗忽許して下され」
 と、煮えくりかえる胸まで畳につけんばかりに、あやまった。
 すると相手は、
「――暫く其の儘《まま》で……」
 と、満右衛門の天窓《あたま》の上で咳などをして、そして、言うことには、
「これで頼み方がお判りでしょうがな」
「――はア」
 満右衛門は真赧《まっか》になって、畳にしがみついていた。
「――ははは……。頼み方を教えて、大切な金を貸すというのは、世間には類の無いことじゃ。しかし、貴方はとも角も、御主人は見捨て難い故、まあ、お貸ししましょう。頭をお上げになって、よろしい」
 満右衛門は頭を上げた咄嗟《とっさ》に、相手を討ち果たして、腹を切ろうと思った。が、いや、差しかかった主人の用向が大切だ、またおれの一命はこんなところで果すべきものではないと、思いかえして、堪忍をこらし、無事に其の時の用を弁じて間もなく退役し、自ら禄を離れて、住所を広島に移して斗籌を手にする身となった……。
 それより三世、即ち彼の祖父に至る間は相当の資産をもち、商を営み農を兼ね些かの不自由もなく安楽に世を渡って来たが、彼の父新助の代となるや、時勢の変遷に遭遇し、種々の業を営んだが、事ごとに志と違い、徐々に産を失うて、一男七子が相続いで生れたあとをうけ、慶応三年六月十七日、第九番目の末子として、彼川那子丹造が生れた頃は、赤貧洗うが如きであった。
 新助は仲仕《なかし》を働き、丹造もまた物心つくといきなり父の挽《ひ》く荷車の後押しをさせられたが、新助はある時何思ったか、丹造に、祖先の満右衛門のことを語ってきかせた。
 兄姉の誰もがまだ知らなかったこの話を、とくにえらんで末子の自分に語ってくれた父の心を想って、丹造は何か発奮し、祖先は金のためにまたとない恥をかいた。よし、このおれは……と、荷車の押す手に、思い掛けない力が籠って、父親の新助がおどろくくらいだった。
 十六歳の時、丹造は広島をあとにして、立身出世の夢を宿毎に重ねて、大阪の土を踏んだ。時に明治十五年であった。
 すぐに道修町《どしょうまち》の薬種問屋へ雇われたが、無気力な奉公づとめに嫌気がさして、当時大阪で羽振りを利かしていた政商五代友厚の弘成館へ、書生に使うてくれと伝手《つて》を求めて頼みこんだ。
 五代は丹造のきょときょとした、眼付きの野卑な顔を見て、途端に使わぬ肚をきめたが、八回無駄足を踏ませた挙句、五時間待たせた手前もあって、二言三言口を利いてやる気になり、
「――お前の志望はいったい何だ?」
 と、きくと丹造はすかさず、
「――わしゃ金持ちになりたい」
 と答えた。
「――そうか。それなら他所《よそ》へ行くが良かろう。おれはいま百万円の借金がある。この借金は死ぬまで返せまい。そんなおれに、金持ちになる道が教えられると思うのか。うはははは……」
 笑いやんで、五代は、
「――帰れ」
 と、言った。
 丹造はその後転々奉公先をかえたが、どこでも尻が温らず、二十歳の時には何とかの罪で罰金七円、二十一の時には罰金十円をくらった。
 それで何となく大阪に住みにくく、丹造は東京へ走った。職を求めて東京市中を三日さまよう内に、僅かな所持金もなくなり、本郷台町のとある薄汚いしもたやの軒に、神道研究の看板が掛っているのを見て、神道研究とはどういうものかわからなかったが、兎も角も転がり込んだ時は、書生にしてくれと、頼む泣声も出なかったほど、あわれに飢え疲れていた。
 広島|訛《なまり》に大阪弁のまじった言葉つきを嗤《わら》われながら、そこで三月、やがて自由党の壮士の群れに投じて、川上音次郎、伊藤痴遊等の演説行に加わり、各地を遍歴した……と、こう言うと、体裁は良いが、本当は巡業の人足に雇われたのであって、うだつの上がる見込みは諦めた方が早かったから、半年ばかり巡業についてまわったあげく、到頭飛び出して大阪へ舞い戻った。
 断り無しに持って来た荷物を売りはらった金で、人力車を一台|購《か》い、長袖の法被《はっぴ》に長股引《ながももひき》、黒い饅頭笠《まんじゅうがさ》といういでたちで、南地溝の側の俥夫《しゃふ》の溜り場へのこのこ現われると、そこは朦朧俥夫《もうろうしゃふ》の巣で、たちまち丹造の眼はひかり、彼等の気風に染まるのに何の造作も要らなかった。
 田舎出の客を見ると、五銭で大阪名所を案内してやる……と、寄って行く。そして、市中をガラガラ引き廻しながら、あやしげな名所案内の説明をやり、宿屋へ送りこむと、名所の説明代は一ヵ所五銭だ、六十ヵ所説明してやったから三円くれと、凄むのである。折柄、悪いところへ巡査《ガチャガチャ》が通り掛っても、丹造はひるまず折合ったところで、一円以下ではなかなかケリをつけなかった。当時、溝の側から貝塚まで乗せて三十六銭が相場で、九十銭くれれば高野山まで走る俥夫もざらにいた。
 しかし、間もなく朦朧俥夫の取締規則が出来て、溝の側の溜場にも屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》お手入れがあってみると、さすがに丹造も居たたまれず、暫らくまごまごした末、大阪日報のお抱え俥夫となった。殊勝な顔で玄関にうずくまり、言葉つきもにわかに改まって丁寧だったが、それが存外似合った。
 一年ばかり、そこの記者衆を乗せて、出先と社の玄関を往復している間に、彼等の内幕やコツをすっかり覚えこんでしまったある雨の日、急に丹造の野心はもくもくと動きだして、よし、おれも一番記者になって……と、雨に敲かれた眼にきっと光を見せたが、しかし、お抱え俥夫から一足飛びに記者になろうというのは、町医者づきの俥夫が医者になろうというのと同然、とてものことに見込みはなかったから、いっそのこと、自身新聞社を経営してやろうと、丹造は本気で思い、この想いを毎日ガラガラ走らせていた。
 横堀|筋違《すじかい》橋ほとりの餅屋の二階を月三円で借り、そこを発行所として船場《せ
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