る。と、こう言い切ってしまうと、簡単でわかりやすく、殊勝でもあり、大向うの受けは良いのだが無論それもある。が、それだけでは、新派めいて、気が引ける。ありていに言うと、ひとつにはおれの弥次馬根性がそうさせたのだ。施灸の巡業ときいて、
「――面白い」
と思ったのだ。巡業そのものに、そして、そんなことを思いつくお前という人間に、興味を感じたのだ。お前のような人間に……つまりは、腐れ縁といった方が早い。
「社会奉仕」というからには、あくまで善は急ぐべしと、早速おかね婆さんを連れて、三人で南|河内《かわち》の狭山《さやま》へ出掛けた。
寺院に掛け合って、断られたので、商人宿の一番広い部屋を二つ借り受け、襖《ふすま》を外して、ぶっ通しの広間をつくり、それを会場にした。それから、「仁寄せ」に掛った。
「仁寄せ」などと言えば、香具師《やし》めくが、やはりここはあくまでこの言葉でなくてはならぬ。それほど、なにからなにまで香具師の流儀だったのだ。
だいいち、服装からして違う。随分凝ったもんだ。一行三人いずれも白い帷子《かたびら》を着て、おまけに背中には「南無妙法蓮華経《なむみょうほうれんげきょう》」の七字を躍らすなど、われながらあやしい装立ちだった。が、それで気がさすどころか、存外糞度胸ができてしまって、まるで村芝居にでも出るようなはしゃぎ方だった。
お前もおれも何思ったか無精髭《ぶしょうひげ》を剃《そ》り、いつもより短く綺麗《きれい》に散髪していた。お前の顔も散髪すると存外見られると思ったのは、実にこの時だ。
おれは変にうれしくなってしまい、「日本一の霊灸《れいきゅう》! 人ダスケ! どんな病気もなおして見せる。▽▽旅館へ来タレ」とチラシの字にも力がこもった。チラシが出来上がると、お前はそれを持ってまわり、村のあちこちに貼りつけた。そして散髪屋、雑貨屋、銭湯、居酒屋など人の集まるところの家族には、あらかじめ無料ですえてやり、仁の集まるのを待ち構えた。
もし、はやらなければ、宿賃の払いも心細い……と、口には出さなかったが、ぎろりとした眼を見張ってから一刻、ひょいと会場の窓から村道の方を覗くと、三々伍々ぞろぞろ歩いて来る連中の姿が眼にはいり、あ、宣伝が利いたらしいとむしろ狼狽《ろうばい》した。
「――婆さん頼んだぜ」
と、すぐさまおれは「受付」の机のうしろに坐り、そして、来た順に並ばせていちいち住所、氏名、年齢、病名をきいて帖面へ控えた。一見どうでもよいことのようだったが、これが妙に曰くありげで、なかなか莫迦《ばか》に出来ぬ思いつきだった。
お前はおかね婆さんの助手で、もぐさをひねったり、線香に火をつけて婆さんに渡したり、時々、
「――はいッ!」
と、おかしげな気合を掛けたり、しまいには数珠《じゅず》を揉んで、
「――南無妙法蓮華経!」
と、唱えて見たり、必要以上にきりきり舞いをしていたが、ふと見ると、お前は鉢巻をしていた。おれはぷっと噴きだし、折角こっちが勿体ぶっているのに、鉢巻とはあんまり軽々し過ぎる、だいいち帷子との釣合いがとれないではないかと、これはすぐやめさせた。
面白いほどはやり、婆さんははばかりに立つ暇もないとこぼしたので、儲けの分を増してやることにして埋め合せをつけるなど、気をつかいながら、狭山で四日過し、
「――こんな眼のまわる仕事は、年寄りには無茶や。わてはやっぱし大阪で三味線ひいている方がよろしいおますわ」
と言う婆さんを拝み倒して、村から村へ巡業を続け、やがて紀州の湯崎温泉へ行った。
温泉場のことゆえ病人も多く、はやりそうな気配が見えたので、一回二十銭の料金を三十銭に値上げしたが、それでも結構患者が集まった。
「――どうです? 古座谷さん、この繁昌《はや》りようは、実際わしの思いつきには……」
さすがに驚きはしたが、しかし、何といっても、繁昌った原因は、おれの宣伝のやり方が堂に入っていたからだ。
いかにおれが宣伝の才にめぐまれていたかは、いずれ後ほど詳しく述べる故、ここでは簡単に止めて置くが、たとえば湯崎へ来た最初の日集まった患者のなかで口の軽そうな、話好きそうな婆さんを見ると、
「――この灸は天下一の名灸ではあるが、真実効をあらわそうと思えば、たった一つ守って貰わねばならぬことがある。いや、いや、こういったからって、何もむつかしいことじゃない。灸をすえて三十分後にすぐ温泉に浸り、そして十三時間湯殿から一歩も出ず、灸の穴へひっきりなしに湯気をあてて置けば良いのだ。これをむつかしい言葉で言うと温泉灸療法という……。いや、言葉はどうでもよい。わかったね。十三時間温泉にいるんですよ」
温灸という言葉ならあるが、温泉灸療法とは変な言葉だと、われながら噴きだしたくなるのをこらえこらえ、おごそかに言い渡したものだ。
病人というものはいったいに正直なものだが、おまけに年寄りで、広告にひきつけられて灸をしに来るというからには、まかりまちがっても、おれの言葉をあやしむことはあるまい。いそいそとして、長風呂にはいり、退屈まぎれに、湯殿へやって来る浴客を掴まえては、世間話、その話の序でには、どこそこでよく効く灸をやっている、日蓮宗の施灸奉仕で、ありがたいことだ、げんにわたしもいま先……と、灸の話が出ることは必定……と、可哀想に長風呂でのぼせてしまう迷惑も考えずに、おれも随分罪な宣伝をやったものだが、これがまた莫迦に当ったのだ。
前後一週間のうちにいくら儲けたか、いま記憶はないが、大阪に残して来たお千鶴のもとへ、お前がひそかに為替をくんで送金してやったことだけは、さすがのこいつもお千鶴のことは気になると見える、存外殊勝なもんだと、その時感心しただけに、今もおぼえている。もっとも、その金は「売上げ」(とお前は言っていた、つまり収入だ)のなかから、内緒でくすねていたものらしいと、あとでわかった時は、興冷めしたが……。
とにかく、儲かった。お前は有頂天になり、
「もうおかね婆さんさえしっかり掴まえて置けば一財産出来ますぞ」
と、変に凄んだ声でおれに言い言いし、働きすぎて腰が抜けそうにだるいと言う婆さんの足腰を湯殿の中で揉んでやったり、晩食には酒の一本も振舞ってやったりして鄭重《ていちょう》に扱っていたが、湯崎へ来てから丁度五日目、
「――ほんまに腰が抜けてしもた」
と、婆さんは寝ついてしまった。
あわてて按摩《あんま》を雇ったり、見よう見真似の灸をすえてやったりしたが、追っ付かず、「どんな病気もなおして見せる」という看板の手前、恥かしい想いをしながらこっそり医者をよんで診せると、
「――こりゃ、神経痛ですよ。まあ、ゆっくり温泉に浸って、養生しなさい。温泉灸療法でもやることですな」
と、知っていたのか、簡単に皮肉られて、うろたえ、まる三日間二人掛りで看病してやったが、実は到頭中風になってしまっていた婆さんの腰が、立ち直りそうにもなかった。
「――これももと言うたら、あんたらがわてをこき使うたためや」
と、おかね婆さんは大分怪しくなって来た口調でぼそぼそぼやく[#「ぼやく」に傍点]し、宿や医者への支払いは嵩む一方だし、それに、婆さんに寝込まれているのは「医者の不養生」以上に世間にも恰好がわるい話だと、おれは随分くさってしまったが、お前ときてはおれ以上、
「――もう、こうなっては、宿の客ひきをするか、どろんをきめるか、どちらかですな」
と、何ともいいようのない顔で苦り切っていた。
宿の客ひきもどろんも、どちらもいずれ劣らずお前らしくて似合っていると、おれはおかしかったが、しかし、まさか婆さんの中風がなおるまで客ひきをするほど殊勝なお前でもあるまいと、ひそかに考えていたところ、案の定、ある日、
「――うさばらしに田辺で遊んで来ますよ」
と、そわそわ出掛けて行ったきり、宿へ戻って来なかった。
蒸気船の汽笛の音をきいた途端に、逐電しやがったとわかり、薄情にもほどがあると、すぐあとを追うて、たたきのめしてくれようと、一旦は起ち上がったが、まさか婆さんを置き去りにするわけにもいかず、折柄、
「――古座谷はん、済まへんけど、しし[#「しし」に傍点]さしたっとくなはれんか」
と、情けない声をだした婆さんの方にかまけて、思い止まり、背中にまわっていつもお前がしてやっていたように、存外思い腋の下を抱え起し、尿をとってやった。ごつごつした身体だった。
それから、四五日も看病してやったろうか、いよいよ宿や医者への支払いにさし迫られたので、たまりかねて婆さんを背負って、綱不知《つなしらず》から田辺へわたり、そこから船で大阪へ舞い戻るまで、随分おれは情けない目を見た。みなお前のせいだ。
四
高津の裏長屋の二階へ帰って四日目におかね婆さんは、息をひきとった。
身寄りの者もないらしく、また、むかしの旦那だと名乗って出る物好きもなく葬儀万端、二三の三味線の弟子と長屋の人たちの手を借りて、おれがしてやった。長屋の住人の筈のお前は、その時既にどこやら姿をくらましていた。
ひとにきけば、湯崎より逃げかえった翌日、お千鶴と一緒に、夜逃げしてしまったということだった。ここらあたりから急に悪趣味になって来た「真相をあばく」の時代がかった文章を借りていうと、
――さて、お千鶴を道連れに夜逃げをきめこんだ丹造は、流れ流れて故国の月をあとに見ながら、朝鮮の釜山に着いた。
馴れぬ風土の寒風はひとしおさすらいの身に沁み渡り、うたた脾肉《ひにく》の歎《たん》に耐えないのであったが、これも身から出た錆《さび》と思えば、落魄《らくはく》の身の誰を怨まん者もなく、南京虫《なんきんむし》と虱《しらみ》に悩まされ、濁酒と唐辛子を舐《な》めずりながら、温突《おんどる》から温突へと放浪した。
しかし、空拳と無芸では更に成すべき術もなく、寒山日暮れてなお遠く、徒らに五里霧中に迷い尽した挙句、実姉が大邱に在るを倖い、これを訪ね身の振り方を相談した途端に、姉の亭主に、三百円の無心をされた。姉夫婦も貧乏のどん底だった。
「百円はおろか五円の金もおまへんわ」
と、わざと大阪弁をつかって、ありていに断ると、姉の亭主は、
「――そうか、そりゃ、残念だ。ここに百円あれば、ぼろい話があるんだが……」
と、いかにもがっかりした顔だった。釣られて、
「――では、何かうまい話でも……?」
と、きくと、実は砂金の鉱区が売物に出ているという。銀主を見つけて、採取するのもよし、転売しても十倍の値にはなるとの話に、丹造の眼はみるみる光り泪一つこぼさず、三味線の心得あるを倖い、お千鶴をしかるべきところへ働きに出した。そして砂金の鉱区を買ったが……。
写していて、よくもまあ、お前という人間のいやらしさにうってつけの文章だと、あきれるくらいだが、さて、そうやって砂金の鉱区を買ったものの、ここでも未だ運は向かなかったらしい。
お前が大阪から姿を消してしまってから二年ばかり経ったある日、御霊《みたま》神社の前を歩いていると、薄汚い男がチラシをくれようとした。
どうせ文楽の広告ビラだろうくらいに思い、懐手《ふところで》を出すのも面倒くさく、そのまま行き過ぎようとして、ひょいと顔を見ると、平べったい貧相な輪郭へもって来て、頬骨だけがいやに高く張り、ぎょろぎょろ目玉をひからせているところはざらに見受けられる顔ではない――すぐお前だとわかった。倭小な体躯《たいく》を心もち猫背にかがめているのも、二年前と変らぬお前の癖だった。
「こいつ奴!」
と、思わず出掛った言葉に代る「よう!」という声をいっしょにあわててチラシをうけとったが、それは見ずに、
「どうしてたんだい? 妙なところで会うね」
チラシ撒きなんぞに落ちぶれてしまったかと、匂わせながら言うと、案外恥じた容子も見せずに、酒蛙酒蛙《しゃあしゃあ》と、
「――いや、どうもすっかり御無沙汰しまして……。いつぞやは、飛んだ御迷惑を……」
と、それで、湯崎の一件を済して置いて、言葉を続け、
「――実は、あれ
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