に、――今だから白状するが、――おれは突然変な気を起し、いきなり手を握ろうと、……想えば、莫迦莫迦しいことだった。その時、何故、そんな気を起したのか、その瞬間、お千鶴が大変醜く見えた。そのせいだったかも知れない。いや、それにちがいあるまい。何故なら、これまでそうしようと思えば、随分機会があったのに、あとにも先にもたった一度、よりによってその時だけ、そんな気になったのだから……。
お千鶴はおどろいて、おれの手を振りはらい、
「――転合《てんご》しなはんな」
と、言って、あわてて帰って行ったが、むやみに尻を振り立てたその後姿が一層醜く見え、もうそれはおれの変な気持をそそるのを通り越した、むくつけき感じだったから、以後、おれもそんな振舞いに出るようなことはなかった。
ところで、お前は妾のことをお千鶴に嗅ぎつけられても、一向平気で、それどころか、霞町の本舗でとくに容姿端麗の女事務員を募集し、それにも情けを掛けようとした。まず、手始めに広告取次社から貰った芝居の切符をひそかにかくれてやったり、女の身で必要もない葉巻を無理にハンドバックの中へ入れてやったり、機嫌をとっていた。
それを察した相手が、安全なうちにと、暇をいただきたい旨言い出すと、お前は、
「――どうして、そんなこと言うんです。×子さん、何故、居て下さらんのか」
と、ぼろぼろ泪をこぼして、浅ましい。嘘の泪が本当とすれば、恐らく折角手折ろうとした花に逃げられる悲しさからだろうか。まさか、と思うが、しかし、存外、そんなところもあるお前だったかも知れない。
泣かれて、女事務員は辞職を思い止まった――というから、女というものほど当てにならぬものはない。
そんな風に、お前の行状は世間の眼にあまるくらいだったから、成金根性への嫉《ねた》みも手伝って、やがて「川那子メジシンの裏面を曝露《ばくろ》する」などという記事が、新聞に掲載されだした。
勿論、大新聞は年に何万円かの広告料を貰っている手前、そんな記事はのせたくものせなかったから、すべて広告を貰えない三流新聞に限られていたが、しかし、お前は狼狽した。
「――どうしましょう?」
そう言って、おれの顔を見たその眼付きに、何故かおれはがっかりした。少しも冴えたところの無い、おどおどした眼付きだった。
かつて、船場新聞で相手構わず攻撃の陣を張っていた頃、どこかの用心棒が撲り込みに来たことがあったが、その時お前は部屋の隅にじっと腕組みして、いくらか蒼ざめながら彼等をにらんでいた――あの眼付き、それと、御霊神社の前でチラシを配っていた時の、その必要もないのに、ひどく隙がなかったあの鋭く光った眼付きを想い出して、おれはこうも変るものか、とむしろあきれ、お前をさげすんだ。
やっぱり、人間は金が出来てしまうと、駄目だと思って、
「――どうしましょうも、こうしましょうも無いさ。放って置け! ――それとも、怖いのか」
たった一言、吐き捨てて、あと口を利かず、素知らぬ顔をしてやった。すると、またしても、心細げにちらと見上げたお前の眼付きの弱さ!
「――こうッと。何ぞ良い考えはないもんかな」
お前はしきりに首をひねっていたが、間もなく、川那子メジシンの広告から全快写真の姿が消え、代って歴史上の英雄豪傑をはじめ、現代の政治家、実業家、文士、著名の俳優、芸者等、凡ゆる階級の代表的人物や、代表的時事問題の誹毀讒謗《ひきざんぼう》的文章があらわれだした。
自身攻撃されるのを防ぐために、有名人を攻撃するという、いわば相手の武器をとって、これを逆用するにも似た、そんなやり口を見て、おれは、さすがに考えやがったと思ったが、しかし、その攻撃文に「国士川那子丹造」という署名があるのを見て、正直なところ泪が出た。
しかし、これも薬を売る手段とあれば、致し方あるまいと、おれは辛抱して見ていたが、やがて、その署名の活字がだんだん大きくなって行き、それにふさわしく、年中紋附き羽織に袴《はかま》を着用するようになった。そして、さまざまな売名行為に狂奔した。れいによって「真相をあばく」に詳しい。
――手をかえ、品をかえ、丹造が広告材料に使った各種の売名行為のなかで、これだけはいくらか世のためになったといえるのがあるとすれば、貧病者への無料施薬がそれであろう。しかし、それとて真に慈善の意志から出たものか、どうかは、疑わしい。
施薬をうけるものは、区役所、町村役場、警察の証明書をもって出頭すべし、施薬と見舞金十円はそれぞれ区役所、町村役場、警察の手を通じて手交するという煩雑な手続きを必要とした魂胆に就いては、しばらくおくとしても、あの仰々しい施薬広告はいったいなんとしたことか。
この稿を草する間にも、彼はいかがわしい施薬結果を、全国の新聞紙上に広告した。即ち、そ
前へ
次へ
全16ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング