わば「灰色の月」という小品を素材にして、小説が作られて行くべきで、日本の伝統的小説の約束は、この小説に於ける少年工の描写を過不足なき描写として推賞するが、過不足なき描写とは一体いかなるものであるか。われわれが過去の日本の文学から受けた教養は、過不足なき描写とは小林秀雄のいわゆる「見ようとしないで見ている眼」の秩序であると、われわれに教える。「見ようとしないで見ている眼」が「即かず離れず」の手で書いたものが、過不足なき描写だと、教える。これが日本の文学の考え方だ。最高の境地だという定説だ。猫も杓子《しゃくし》も定説に従う。亜流はこの描写法を小説作法の約束だと盲信し、他流もまたこれをノスタルジアとしている。頭が上らない。しかし、一体人間を過不足なく描くということが可能だろうか。そのような伝統がもし日本の文学にあると仮定しても、若いジェネレーションが守るべき伝統であろうか。過不足なき描写という約束を、なぜ疑わぬのだろう。いや「過不足なき」というが、果して日本の文学の人間描写にいかなる「過剰」があっただろうか。「即かず離れず」というが、日本の文学はかつて人間に即きすぎたためしがあろうか。心境小説的私小説の過不足なき描写をノスタルジアとしなければならぬくらい、われわれは日本の伝統小説を遠くはなれて近代小説の異境に、さまよいすぎたとでもいうのか。日記や随筆と変らぬ新人の作品が、その素直さを買われて小説として文壇に通用し、豊田正子、野沢富美子、直井潔、「新日本文学者」が推薦する「町工場」の作者などが出現すると、その素人の素直さにノスタルジアを感じて、狼狽してこれを賞讃しなければならぬくらい、日本の文学は不逞なる玄人の眼と手をもって、近代小説の可能性をギリギリまで追いつめたというのか。「面白い小説を書こうとしていたのはわれわれの間違いでした」と大衆文学の作者がある座談会で純文学の作家に告白したそうだが、純文学大衆文学を通じて、果して日本の文学に「アラビヤン・ナイト」や「デカメロン」を以てはじまる小説本来の面白さがあったとでもいうのか。脂っこい小説に飽いてお茶漬け小説でも書きたくなったというほど、日本の文学は栄養過多であろうか。

 正倉院の御物が公開されると、何十万という人間が猫も杓子も満員の汽車に乗り、電車に乗り、普段は何の某《なにがし》という独立の人格を持った人間であるが、車掌
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