まで引きあげた努力も、口語文で成し得る簡潔な文章の一つの見本として、素人にも文章勉強の便宜を与えた文才も、大いに認める。この点では志賀直哉の功を認めるに吝《やぶさ》かではない。しかし、志賀直哉の小説が日本の小説のオルソドックスとなり、主流となったことに、罪はあると、断言して憚からない。心境小説的私小説はあくまで傍流の小説であり、小説という大河の支流にすぎない。人間の可能性という大きな舟を泛べるにしては、余りに小河すぎるのだ。けっして主流ではない。近代小説という大海に注ぐには、心境小説的という小河は、一度主流の中へ吸い込まれてしまう必要があるのだ。例えば志賀直哉の小説は、小説の要素としての完成を示したかも知れないが、小説の可能性は展開しなかった。このことは、小説というものについて、ことに近代小説の思想性について少しでも考えた人なら、誰しも気づいていた筈だが、最高の境地という権威がわざわいしたのと、日本の作家や批評家の中で多かれ少かれ志賀直哉の小説というより、その眼や境地や文章から影響を受けた者が多いという事情がわざわいして、小説を「即《つ》かず離れず」の芸術として既に形式の完成されたものと見る考え方が、近代小説の可能性の追求の上位を占めてしまったのである。そして、この事情は終戦後の文壇に於ても依然として続き、岩波アカデミズムは「灰色の月」によって復活し、文壇の「新潮」は志賀直哉の亜流的新人を送迎することに忙殺されて、日本の文壇はいまもなお小河向きの笹舟をうかべるのに掛り切りだが、果してそれは編輯者の本来の願いだろうか、小河で手を洗う文壇の潔癖だろうか。バルザックの逞しいあらくれの手を忘れ、こそこそと小河で手をみそいでばかりいて皮膚の弱くなる潔癖は、立小便すべからずの立札にも似て、百七十一も変名を持ったスタンダールなどが現れたら、気絶してしまうほどの弱い心臓を持ちながら、冷水摩擦で赤くした貧血の皮膚を健康の色だと思っているのである。「灰色の月」はさすがに老大家の眼と腕が、日本の伝統的小説の限界の中では光っており、作者の体験談が「灰色の月」になるまでには、相当話術的工夫が試みられて、仕上げの努力があったものと想像されるが、しかし、小説は「灰色の月」が仕上ったところからはじまるべきで、体験談を素材にして「灰色の月」という小品が出来上ったことは、小説の完成を意味しないのだ。い
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