五右衛門は、腹が立つやら、情けないやら、熱いやら、痛いやら、まるで精神状態が目茶苦茶にみだれてしまったが、しかし、この男は元来が虚栄心で固めて日本一の大泥棒になったくらいの男であったから、さすがに燃え残りの自尊心を取り戻して、
「やいやい、野郎共、何を笑うておる。何がおかしい、親分の俺が大火傷をしたのが、そんなにおかしいか。莫迦め、こりゃ火傷じゃないわい。先頃から肩が凝ってならんから、わざと灸を据えてみたまでじゃ。何がおかしい。ああ、熱い熱い、痛い痛い。莫迦め! 莫迦野郎[#底本では「莫迦郎野」と誤植]! ああ、熱い、よく効く灸じゃ。ああ、熱い!」
と、妙なことを口走って、子分共を叱り飛ばした。
すると、手ふいごの風之助という、吹けば飛ぶようなひょうきんな男が、
「親分、肩の凝りなら、灸よりも蛭《ひる》に血を吸わせた方が効きますぜ」
「いや、蛭よりも鼠の黒焼きを耳かきに一杯と、焼明礬をまぜて、貼りつけた方が……」
そう言ったのは、膳所《ぜぜ》の十六である。
「やいやい、野郎共、何をあらぬことをぬかしておる」
と、五右衛門はカンカンになりながら、ひょいと見ると、猫真似の闇右衛門という子分が、おかしさにたまりかねて、地べたに顔を伏せながら、くっくっ笑っているのだ。[#底本では句点が欠落]
「やい、猫真似! 何をしている?」
「猿飛の奴の足跡を探しますんで」
と、猫真似の闇右衛門が咄嗟にごまかすと、
「莫迦め! こけが銭を落しやすめえし、きょろきょろ地面を嗅ぎまわりやがって、みっともねえ真似をするな! 猿飛という奴は足跡を残すような、へまな男じゃねえ。今頃は東西南北、どこの空を飛んでいるか、解るものか」
五右衛門はそう言ったが、何思ったか、急にうんとうなずいて、
「しかし、俺はきっと猿飛をつかまえて見せるぞ」
「何か妙策が……?」
「うん。二つはないが、一つはある。子分共もっと傍へ寄れ……」
五右衛門は子分を集めると、わざとらしく声をひそめて、
「――妙策というのは外でねえ。手めえたちは、今から京の町を去って、一人ずつ諸国の山の中に閉じこもって、山賊となるんだ。そして手下を作って、仕たい放題の悪事を働けば、手めえたちの噂はすぐ日本国中にひろがって、猿飛の耳にもはいろう。猿飛という奴はオッチョコチョイだから、山賊の噂をきけば、直ぐノコノコと山賊退治にやって来るに違いねえ。そこをふん縛るんだ」
「しかし、親分、猿飛という奴は、親分にも大火傷、いやお灸[#底本では「お炙」と誤植]を据える位の忍術使いですから、下手すると、こっちがやられてしまいますぜ」
「莫迦をいえ! いかな猿飛といえど、俺の秘策に掛っては……」
「秘策というと……?」
「松明仕掛けの睡り薬で参らすんだ。その作り方は、土竜《もぐら》[#底本では「土龍」]、井守《いもり》、蝮蛇《まむし》の血に、天鼠、百足《むかで》、白檀、丁香、水銀郎の細末をまぜて……」
そんな陰謀があるとは、知らぬが仏の奈良の都へ、一足飛びに飛んだ佐助は、その夜は大仏殿の大毘盧遮那仏の掌の上で夜を明かした。
「天下広しといえども、大仏の掌で夜を明かしたのは、まずこの俺くらいなものであろう」
と、例によって佐助は得意になっていたが、しかし、翌朝早く眼を覚ますと、にわかに空腹を覚えた。
「なるほど大仏の掌は、天下一[#底本では「大下一」と誤植]の旅籠だが、朝飯を出さぬのが、手落ちだ。といって、あわてて上田の城を飛び出して来たもんだから、一杯六文の奈良茶漬けを食う銭もない」
と、呟いてみたが、そんな駄洒落では腹の足しになるまいと、考えているうちに、ふと頭に泛んだのは、奈良には槍の宝蔵院があるということである。
「そうだ。宝蔵院では試合を求めに来た者には宝蔵院漬けの茶漬けを出すということだ」
そう呟いた途端、佐助の身体はえいという掛声と共に、もう宝蔵院の前に突っ立っていた。
玄関につるしてある銅鑼《どら》を鳴らすと、
「どーれ」
出て来たのは三好清海入道よりまだ汚い、あらくれの坊主である。
「それがしは、信州真田の郎党、猿飛佐助幸吉と申す未熟者、御教授を仰ぎたい」
「上られい!」
草鞋を脱いで上ると、道場へ通された。
「流儀は……?」
と訊かれたので、にやにやしながら、
「何流と名乗るほどのものはござらぬが、強いて申さば、一流でござる」
と、答えると、相手はカンカンになって、
「当院は宝蔵院流といって、一度び試合を行えば必ず怪我人が出るというはげしい流儀じゃ。町道場の如き生ぬるい槍と思われては後悔するぞ。まった、当院は特に真槍の試合にも応ずるが、当院に於いて命を落した武芸者は既に数名に及んでいる。寺院なれば殺生を好まずなどと、考えては身のためにならんぞ!」
「なるほど、当院は人殺し道場でござるか。いやいや、感服致した。寺院なれば葬式の手間もはぶけて、手廻しのよいことでござるわい」
「…………」
相手はあっけにとられていた。
「したが、それがし目下無一文にて、回向料の用意もしておらぬ故、今ここで死ぬというわけには参りませぬて。あはは……」
「何ッ!」
坊主はかんかんになって、起ち上った。
「あはは……。薬鑵《やかん》頭から湯気が出ているとは、はてさて茶漬けの用意でござるか。ても手廻しのよい」
「黙れ!」
坊主は真槍をしごくと、
「――えい!」
と、佐助の胸をめがけて、突き出した。
途端に、佐助の姿は消えていた。
「やや、こ奴魔法つかいか。いきなり見えなくなったとは、面妖な」
と坊主は驚いたが、すぐカラカラと笑うと、
「いやそうではあるまい。大方、愚僧の槍に突かれて、猿沢の池あたりまで吹っ飛んでしまったのであろう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、万物逝いて復らず、人生流転、生者必滅、色即是空!」
どうも修業の足りぬ坊主と見えて、しどろもどろの念仏を唱えているところを、佐助は宙に浮いたまま鉄扇でしたたか敲くと、
「参った!」
佐助はドロドロと姿を現わして、
「失礼仕った!」
「やや、こ奴!」
「あはは……。お手前の眼から出た火で、薬鑵頭の湯気が煮え立っておるところを見れば、茶の用意も整ったと見えた。――どれ、茶漬けの馳走にあずかりましょうかな」
宝蔵院漬けの茶漬けに味をしめた佐助は、その日の昼食を、奈良から一足飛びに飛んだ京の都、今出川畔、当時洛中に噂の高い、その名も富田無敵《とんだむてき》という男の道場で、したためた。
晩飯は同じく四条、元室町出仕の吉岡憲法の道場、翌日の朝飯は百万遍、舎利無二斎《しゃりむにさい》の道場と洛中の道場を一つ余さず食べつくした挙句、やがて京の都を今日(京)を限りに大坂へ現われた時に既にアバタの茶漬け侍の威名は、その醜いアバタ面の噂と共に、大坂中に鳴り響いていた。
大坂の道場もまた、佐助の忍術の前には赤子同然であった。
その赤子の手を軽くねじった佐助の足は、やがて、須磨、明石、姫路、岡山へと中国筋に伸びて、遂に九州の南の端にも及び、琉球の唐手術も佐助の前には、脆かった。
佐助の自尊心は、ここに到って、アバタのひけ目を補って余りあるくらい満足され、
「天下ひろしといえども、この俺より強い者に一人も出会わなかったとは、はてさて弱い奴ばかしが、佃煮《つくだに》にするほどおったものだわい」
と、歩き方も変って来たが、しかし、帰りの道を歩いて帰るのは、いささかおっくうであつた。
一体に、武芸者が諸国を漫遊するのは、自分より強い武芸者に会うて、教えを請い、自分の腕を磨きたいという気持よりも、むしろ、天下に自分より強い者がおるかどうかを知りたい、自分より強い者がいないことを確かめて、自己満足に酔いたいという傲慢な虚栄心から、漫遊するのが常である。
してみると、佐助にとっては、既に自分より強い者はわが師白雲斎のほかになしと、わかった以上、弱い奴ばかしが一月いくらの月謝ほしさの道場を、ほそぼそと張って、それで威張りかえっているような国々を、もう一度てくてくと歩いて帰るのは、これほど退屈な話はない。
そこで、佐助は久し振りの飛行の術で一足飛びに帰ることにした。
が、どこへ帰るのか。俺に帰るところがあろうか。恋しい楓のいる信州へか。いや、アバタの穴が消えぬ限り、楓の前には、会わす顔がない。
そう考えると、佐助は憂鬱だったが、
「往きはよいよいの、中風のような武芸者が相手だが、帰りは怖い雷様を道連れとは、ても洒落た道中かな。えいと叫べば、はや五体は宙を飛んで行く。ぐんぐん登れば雷様を下に見る、不死身の強さは日本一の、猿飛佐助の道中だ」
という洒落が出て来ると、もう憂鬱はけし飛んで、得意満面の鼻歌まじりに、大空を飛んで行った。
そして、九州を過ぎ、中国筋を飛び、大坂、京の上空を過ぎて、近江の上空甲賀の山上まで飛んで来た時の佐助は、虚栄心に動かされやすい、青春客気の昂奮に、気も遠くなるくらい甘くしびれていた。
ところが、ふと眼下の甲賀山中から、一筋の妖気の立ちのぼるのを見て、
「はて面妖な!」
と、呟いた途端、
「――あッ」
たちまち飛行の術は破れて、佐助の身体は甲賀山中に墜落して行ったが、さすがに佐助は、地面すれすれの、咄嗟の宙がえりで、危く五体が木ッ葉微塵になるのをまぬがれた。
「ふーむ。わが飛行の術を破ったとは、いかなる妖魔の仕業か。わが術を破り得るほどの者、天下ひろしといえども、わが白雲斎師匠を除いて、ほかにはない筈だが、伊賀流か、甲賀流か、何れにしても手強い奴! 名を名乗れ!」
と、呶鳴りながら、起ち直ったところ、いきなり足をすくわれて尻餠つき、
「ああ、見苦しい!」
と、直ちに木遁の術……が、しかし何故か思うに任せず、金縛りにかかったようになりながら、ただ阿呆の一つ覚えのように、
「名を名乗れ! 名を名乗れ!」
と、わめいていると、いきなり、
「汝のようなたわけめに、名乗る名を持たぬわ!」
という声が、どこからか聴えて来た。
「あ、先生!」
さすがに、佐助は白雲斎師匠の声を覚えていた。
「――おなつかしゅうござります。佐助でござります」
すると、空よりの声は、
「知っておる」
「お顔を見せて下さりませ」
「たわけめ! 汝のような愚か者に、見せる顔は、持たぬわ!」
「えッ?」
「汝ははや余が教訓を忘れしか」
「えッ?」
「忍術とは……?」
と、いきなり訊かれたので、すかさず、
「忍ぶの術なり」
「忍ぶとは……?」
「如何なる困苦にも堪うる、これ能く忍ぶなり。まった、火遁水遁木遁金遁土遁の五遁を以って、五体を隠す。これまた能く忍ぶなり」
「忍術の名人とは……?」
「能く忍び、能く隠す、これ忍術の名人たり」
すらすらと答えたが、いきなり、
「汝、能く忍んだか」
と訊かれると、もう答えられなかった。
「はッ! あのウ……」
「答えられまい。汝は能く隠すも能く忍ばざる者じゃ。徒らに五遁の術の安易さに頼って、勝ち急ぐ余りの、不意討ちの卑怯の術にうつつを抜かし、試合に望んでは一太刀の太刀合わせもなさず、あまっさえ、天下一の強者を自負するばかりか、わが教えし飛行の術をも鼻歌まじりに使うとは、何たる軽佻浮薄、増長傲慢、余りの見苦しさに、汝の術を封じてやったが、向後一年間、この封を解いてはやらぬぞ。これ汝への懲罰じゃ――。さらばじゃ」
「あッ、先生!」
と叫んだが、もう師匠の声は聴えなかった。
「たった一度、お姿をお現わし下さいませ! なつかしいお顔を見せて下さりませ。先生! 先生!」
しかし、遂に白雲斎は姿を見せなかった。それは師の鞭のきびしさの故か、それとも、いつぞやの鼻血騒ぎの見苦しさを恥じて、生涯佐助に顔を見せまいと誓っていた故だろうか。
佐助は呆然として、尻餠を突いていた。
術を破られたことよりも、封じられたことよりも、増長傲慢だと、日頃の自惚れを指摘されたことが辛く、
「ああ、俺はだめだ」
と、にわかに自信をなくし、すっかり自尊心を失いながら、とぼとぼと山を降り、やがて、鈴鹿峠の麓の茶店へ腰を下す
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