五十三家の内、特にわが戸沢図書虎家のみに伝わる秘法中の秘法、日の下によって最も気を負える鷲の飛ぶよりも速く、江戸の男を長崎で、一夜の内に討ち果し得るという神変不可思議の術じゃ。また、忍術とは、即ち忍びの術なり。如何なる困苦にも堪うるを、これ能く忍ぶという、一瞬にして五体を隠す所謂五遁の術をも、これ能く忍ぶという。二者を能く忍ぶ即ち忍術の名人なり。忍術の名人にして且つ飛行の術を能くする者即ち鳥人なり。汝よく人間を超克して鳥人とならば、極醜のアバタ面も自由自在に隠し得て、もはや恥すくなからん。されば、只今より伝授せん」
 そう言い放つと同時に、老人は耳も聾する許りの豪屁を放ったが、途端にその姿は臭気もろ共かき消す如く消え失せてしまったので、
「さては、鼬《いたち》に因んだ土遁《どとん》の術か」
 と、うっとりしていると、忽然として現われ、
「忍術には屁の音は要らぬものじゃが、放屁走尿の束の間にも、夢幻の術を行うという所を見せるために、わざと一発放ってみたのじゃ」
 と、破顔一笑した。
 そして、ふと渋い顔になって、
「――そもそも忍びの術とは、古代道臣命勅を奉じ、諷歌倒語を用いられしことは書紀にも見えておるが、後世この法が近江の甲賀に伝えられて、天地人の和を以って行われたのが、甲賀流忍術である……」
 云々と、忍術の講義をはじめている内に、一番鶏の鳴声が聴えた。
 すると、老人にわかに狼狽して、
「はや一番鶏の鳴声が……、やがて山里にげす共の悪声が喧しい。三町四方に蚤の飛ぶのも聴えるこの耳に、うるそうてならんわい」
 と、言いざまに、煙の如く消え去り、さらばじゃという声は、遙か天井より聴えたが、それから毎夜乾の方に星の流れる頃には、必ず現われて、まず蝮蛇の頭をペロペロとくらったあと、鳥人の術の伝授に掛り、三年掛った。
 そしてある夜、鳥居峠の蝮蛇も今宵がくらい収めじゃと、老人はいつも二倍[#いつも二倍(「の」の脱落)はママ]の十匹を、それも春先きの良い奴ばかしを、尻尾も余さず平げたので、ついのぼせてしもうた[#底本では「しまうた」と誤植]のか、おびただしく鼻血を噴きだした。
 驚いた佐助が、蛇の脱殻をまるめて師匠の鼻の穴に詰め込もうとすると、老人は、
「えい、見苦しゅうなるわい。鼻血が停った代りに、人が見て噴きだすわ」
 と、振り払った瞬間、もう姿は見えず、
「――やよ、佐助、既にして汝は鳥人の極意を余す所なく会得《えとく》せり。これ以上の師弟の交りは、雲雨に似てあやし。われ年甲斐もなく、鼻血など噴きだした余りの見苦しさに、思わず姿を消してしもうたが、これ即ち師弟の別れと思うべし。汝はや鳥人たり。アバタ面をげす共に見られることもあるまい。臆し恥ずる所なく、往きて交り、機会《おり》あらば然るべき人にも仕うべし。されど、人と交るや、人しばしばその長所を喜ばず、その短所を喜ぶものと心得べし。即ち、汝のアバタ面は人に喜ばれようが、鳥人の術は喜ばれざる故に、心して用うべし。さらばじゃ」
 と、いう声は、はや遙か嶺の上より聴えて来たが、その時の佐助は、既にその遙かの声が聴きとれるほどの、極意に達していたのである。
 それから一月ばかりたったある日のことである。
「工夫に富める」上田の城主、真田幸村は三好清海入道はじめ、三好伊三、穴山、望月、海野、筧等六人の荒子姓を従えて、鳥居峠に狩猟を催した。
 法螺と笛の名手、三好清海入道が笛を吹くと、大小無数の猿が集ったので、まず幸村自身が射たところ、幸村の矢は意外にも獲物に届かぬ先に、真っ二つに折れてしまった。
「奇怪至極!」
 と、次に清海入道が試してみると、入道の矢は宙にぴったりと停ったかと思うと、いきなり入道の咽笛めがけて、戻って来た。
 入道は驚いて身をかわした拍子に、尻餠をついてしまった。途端に、聴えたのは、カラカラと高笑いの声である。
「誰だ、笑う奴は……?」
 と、入道はカンカンになって、
「――海野、お主か」
「いんや」
「穴山、お主か」
「いんや」
「筧、お主だろう」
「知らぬ」
「さては、望月だな」
「違う。大方貴様の弟だろう」
「おい。伊三、お前も。現在の兄貴を嘲笑するとは、太い奴だ」
「莫迦をいえ。わしが昨日から歯痛で、笑い声一つ立てられないのは、先刻承知じゃないか」
「ふーむ」
 その時、また笑い声がした。
「おや、また笑ったぞ。畜生!」
 と、思わずむいた入道の眼の前に、忽然として現われたのは、六尺三寸の大男だ。
「や、や、天から降ったか、地から湧いたか」
 と、入道が叫ぶと、その男は、揚幕を引いて花道へ出た役者のような、気取った口調で、
「流れ星のように、天から降ったといおうか。蕈《きのこ》のように、地から湧いたといおうか。流れ星なら、尻尾も見えよう、蕈の類なら、匂いもしようが、尻尾も見えず、匂いもなしに、火遁《かとん》[#底本では「かとく」とルビ]、水遁《すいとん》、木遁《もくとん》、金遁《きんとん》さては土遁《どとん》の合図もなしに、ふわりと現われ、ふわりと消える、白い雲よりなお身も軽い、白雲師匠の秘伝を受けて、受けて返すはへぼ弓、へぼ矢、返らぬとかねて思えばあずさ弓、なき面に蜂のおかしさに、つい笑ってしまったが、笑えば笑窪《えくぼ》がアバタにかくれる、信州にかくれもなきアバタ男、鷲塚の佐助とは、俺のことだ」
 と、名乗ったが、なお名乗り足らぬと見えて、
「――遠からん者は音にも聴け、近くば寄って眼にも見よ。見ればアバタの旗印、顔一面にひるがえる、あきれかえるの醜男と、六十余州かくれもなき、鷲塚佐助のこの面を、とっくり拝んで置け!」
 と、続けたので、さすがの三好入道も、思わず失笑しかけた。
 しかし、男同志が名乗り合う厳粛な時だと、笑いを噛みしめて、
「推参なり。我こそは、信州上田の鬼小姓、笛も吹けば、法螺も吹く、吹けば飛ぶよな横紙を破った数は白妙《しらたえ》の、衣を墨に染めかえて、入道姿はかくれもなき、三好清海入道なり」
 と、名乗った。
 そして、双方名乗りが済むと、三好入道はいきなり長槍をしごいて、佐助の胸をめがけて、
「エイッ!」
 と、突いたが、佐助はぱっと樹の上に飛び上って、笑いながら、
「おい、入道とやら。その坊主頭、打ち見たところ、ちと変哲が無さすぎて、寂しい故、枯木も山の賑いのコブを二つ三つ、坊主山のてっぺんに植えつけてくれようか。眼から出た火で山火事無用じゃ」
 と、言ったかと思うと、ぱっと飛び降りざまに、三好入道の頭を鉄扇でしたたか敲くと、入道は眼をまわして、気絶してしまった。
 見ていた幸村は、何思ったのか、佐助に呼びかけて、あたら幻妙の腕を持ちながら、山中に埋れるのは惜しいと仕官を口説くと元来自惚れの尠《すくな》くない佐助は脆《もろ》かった。

 やがて、幸村より猿飛の姓を与えられた佐助は、
「今日よりは、鳥居峠を猿(去る)飛佐助だ」
 と、駄洒落を飛ばしながら、いそいそと幸村主従のあとについて、上田の城にはいった。
 が、佐助はさすがに白雲師匠の教訓を忘れなかったのか、鳥人の術なぞ知った顔は一つも見せず、専らアバタの穴だらけの醜い顔を振りまわして行くと、案の定人に好かれた。
 その頃、同じ城内に、悪病の為に鼻の欠け落ちた男がいて、しかもこの男は、かなりの艶福を得たかの如く言い触らし、それが万更法螺でもなく、たしかに二三の艶福があったと、信ぜられる節があったから、随分人気が悪かった。
 ところが、佐助はこの男と違って、かつて楓と肩を並べて歩いたこともあったことなぞ、おくびにも出さず、いかにも持てませぬという顔を、城内の集りの時などに見せて、
「こんな顔ゆえ、女は諦めている」
 と、やけに聴えぬ程度に呟いて[#底本では「咳いて」と誤植]、アバタの上に笑窪《えくぼ》を泛べたりしていたので、佐助は阿諛の徒以上に好かれ、城中の女共の中には、
「あのような醜い男を殿御に持てば、浮気をされずに済みましょう」
 と、ひどく理詰めな心の寄せ方をする女もいた。
 しかし、佐助はそんな女の顔を、ひそかに楓の顔とくらべて、見向きもしなかった。そして、アバタ面のためにかえって人に好かれる自分に、驚くたびに、
「人と交るや、人しばしばその長所を喜ばず、その短所を喜ぶものと、心得べし」
 と、訓えた白雲師匠への尊敬の念を新たにしたが、しかし、佐助にひそかに恃《たの》む術がなかったとすれば、あるいはその短所のために卑屈になったかも知れず、その時は短所を喜ばれることもなかったであろうとは、果して白雲師匠は気づいたであろうか。
 ところで、佐助はあまりアバタの顔をさらけ出しすぎたので、アバタの穴から風がはいったのか、それとも下界の風に馴れなかったのか、間もなく風邪をひいて、寝こんでしまった。
 そして、ある日、三好清海入道が病気見舞いにしては、ひどくあわてこんだ恰好でやって来た。
「どうだ、病気は」
「ありがとう。今日あたり起きられそうだ。どうも下界の風という奴は、俺の性に合わぬと見える。いっそ風をくらって、逃げてやろうと思っていたが、どっこい、くらった風が無類の暴れ者、この五体中を駈けずり廻り、横紙破って出たのは、咳やら熱やら、ひどい目に会うてしまったよ。あはは……」
 と、笑うと、入道は人の善さそうな眼をパチパチさせて呆れながら、
「相変らずぺラペラとよく喋る奴だ。が、その位の元気があれば、大丈夫だ」
 そして、急に声を改めると、
「――ところで、些か変なことを訊《き》くようだが、貴公、忍術のほかには何も出来ぬのか」
「風邪をひくことも出来る。ごらんの通りよ」
 済まして言うと、入道はあわてて手を振って、
「いや、そう茶化しては困る。えーと、例えばだ、歌を読むとか、作るとか、そういうことは出来るのか」
 すると、佐助は急に床の上に坐り込んで、
「何? もう一ぺん言ってみろ。出来ぬのかとは、何事だ。人生百般――と、敢えて大きく出ぬまでも、凡そ人間の成すべきことにして、不正、不義、傲慢のこの三つを除いたありとあらゆる中で、この佐助に能わぬことが、耳かきですくう程もあれば言ってみろ!」
「まア、そう怒るな。じゃ、出来るのか」
「憚りながら、猿飛佐助、十八歳の大晦日より二十四歳の秋まで、鳥居峠に籠っていた凡そ六年の間、万葉はもとより、古今、後撰、拾遺《しゅうい》の三代集に、後拾遺、金葉、詞花、千載、新古今の五つを加えて、世にいう八代集をはじめ、源実朝卿の金|槐《かい》集、西行坊主の山家集、まった吉野朝三代の新葉集にいたるまで、凡そ歌の書《ふみ》にして、ひもどかざるは一つも無かったのみか、徒然なるままに、かつは読み、かつは作ってみた歌の数は、ざっと数えてこのアバタの数ほどあるわい」
「判った、判った。道理で日頃の貴公の言葉づかいが、些か常人とは異っていると思っていたよ。ところで、そうときまれば、好都合だ。というのは、外でもない、実は今夜城中に奥方の歌の会があるんだが、今夜の会には、ちと俺の気にくわぬ趣向がたくらまれているんだ」
「ほう? 下手糞な歌を作った罰に、三好清海入道に、裸おどりでもさせようという、趣向か。こりゃ面白い」
「莫迦をいえ。実は、一番いい歌を作った女を、一番いい歌を作った男にくれてやろうという、趣向なんだ。ところが、女の中で一番歌の巧いのは、奥方附きの侍女で、楓という女なんだ」
「楓……? きいたような名だな」
 ふと甘い想いが佐助の心をゆすぶった。が、入道はそんなことには気づかず、
「ところで、男の方の歌の巧い奴は、家老の伜の伊勢崎五六三郎だ」
「すると、何だな。その五六三郎が、楓とやらを、貰いそうなんだな。それがどうして、気に染まぬのだ。貴公、その楓とやらに、思いを寄せておるのか」
「あらぬことを口走るな。俺ア毛虫の次に嫌いなのは、女という動物だ。つまり、今夜の歌の会で俺の気にくわぬ理由が、ざっと数えて三つある。一つは、五六三郎という奴が虫が好かんのだ」
「向うでも、貴公を好きとは言っておらんだろう」
「そうだ、そうだ」
 と、三好はからかわ
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