まった佐助が一途に恋しくて、思い余ったその挙句に、佐助たずねてのあてなき旅の明け暮れにも、はしたなく佐助ばりの口調が出るとは、思えば佐助も幸福な男である。
「滅相もない、お女中様、そりゃおよしなさいませ。あの峠にはおそろしい山賊がおります。昨日もアバタ面のお武家様が山賊退治に行くといって出掛けられましたが、今に下ってみえない所をみると……」
 女中がそう言いかけると、もしと楓はせきこんで、
「もしやそのお侍、信州訛りでは……?」
 胸のあたりがどきどきと顫え、そして、
「さア、どこの訛りかは知りませんが、妙に気取った物の言い振りをされるお武家様で……」
 という女中の言葉を皆まできかず、あ、佐助様にちがいはないと、起ち上ると、茶代も置かずに山道を駈け登って行った。そして、生きているか、死んでいるかは知らぬが、よしんば屍にせよ、恋しいひとの少しでも近くへ行きたい一心の楓の足は、食い気しか知らぬか、もしくは食い気を忘れぬという今時の娘たちの到底及びもつかぬ速さにいじらしい許りであったから、作者もこの辺りは駈足で語ろう。
 何刻かの後、楓は木鼠胴六の前で知っているだけの舞いを、全部舞っていた。
「名は秋の楓だが、はて見飽きもせぬ」
 と、胴六はわざとさりげなく洒落を言ってみせて、時に意味もなく笑い声を立て、手下共は何かしらやけくそめいた酒を飲み、無論胴六もしたたか痛飲し、熊掌駝蹄《ゆうしょうだてい》の宴であったが、やがてガヤガヤ[#底本では「ガヤガヤり」と誤植]入りみだれている内に、物の順序として月並み軒並みに一人残らず酔いつぶれて眠ってしまった隙をのがさず、ひそかに牢屋の鍵を盗み出してしまった楓は、にわかにガタガタと顫えながら、這うようにして牢屋の前に来ると、
「佐助様、佐助様」
 どんな女の一生にも一度は必ず、そして一度しか出ぬ美しい声が、今こそあえかに唇を顫わせた。
「おお、その声は楓どの」
 さすがに覚えていてくれたかと、
「お久しゅうございます」
「…………」
 普段おしゃべりの佐助が鉛のように黙っているのを見て、何故こんなに変っしまったのかと楓はあやしく心が乱れて、まるでその変り方はこの楓を嫌ってしまったせいだろうか。
「何をそのように黙っておられます」
「余りのことに言葉も出なかったのじゃ。思いも掛けぬそなたとの対面、牢屋の中とは面目ないが、この暗闇がアバタ
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