は君枝と次郎を千日前へ遊びに連れて行った。
そして竹林寺の門前で鉄冷鉱泉《むねすかし》をのみ、焼餅を立ちぐいしていると、向い側の剃刀屋から、
「し、し、し、〆さんとち、ち、ちがうか」
と、言いながら出て来た男がある。
「なんや、維康さんかいな。えらいとこで会うたな」
いつか柳吉は蝶子といっしょに河童路地へ来たことがあり、その時の顔馴染みであった。
「――この頃どないしたはりまんねん?」
〆団治が言うと、柳吉は照れくさそうに、
「い、い、い、いま、この向いの、か、か、剃刀屋に働いてまんねん」
「さよか、そら宜しおまんな。蝶子はんも喜びはりまっしゃろ、あんたが働く気になって……。どないだ? 餅ひとつ」
「い、い、いや、もう、毎日向いでな、な、ながめてたら、食う気起りまへんさかい。た、た、た、種はんによろしゅう言うとくなはれ」
「よろしおま。ちとまたどうぞ路地へも遊びに来とくなはれ。蝶子はんによろしゅう」
柳吉と別れて、電気写真館の前まで来ると、〆団治は自分の宣伝写真でも出てないやろかと、ふと陳列窓を覗いてみて、急に大声だした。
「君ちゃん。見てみイ、お前のお父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]とお母《か》んの写真が出てるぜ」
新太郎が町内のマラソン競争で優勝した時の十八年前の記念写真が、変装写真や俳優の写真にまじって、三枚四十銭の見本の札をつけて、陳列してあったのだ。
出張撮影らしく、決勝点になっている長願寺の境内で、優勝旗をもってランニングシャツ姿で立っているのを、ひきまわした幕のうしろから、君枝の母親の初枝が背のびしてふと覗いている顔が、半分だけ偶然レンズのなかにはいっている。
たしか、まだ結婚前だったらしく、そんなことから二人の仲がねんごろになったのだろうかと、〆団治はなつかしかった。
初枝は桃割れに結って、口から下は写っていなかった。
「お父ちゃん、いたはる、しやけど、髭生やしたはれへんな」
「当り前や。二十六やそこらで髭生やすのは東西屋だけや」
「あ、お父ちゃん、お父ちゃん」
君枝はおどりあがっていたが、急に、
「――お母ちゃん居たはれへんわ」
しょげた。すると、次郎が、
「居てる、居てる、これや、ここをよう見てみイ、ほら、この幕のうしろからちょびっと顔だしてるやろ? わい、君ちゃんとこのお母んよう知ってるぜ。これや、これや、なあ、〆さん」
「そや、そや」
君枝はじっとみつめていたが、
「ああ、居たはる、居たはる、お母ちゃん髪結うたはる。お父ちゃんもお母ちゃんも居たはる」
そして、きんきんした声で、
「――わて、もう親なし子やあれへんなア。もう、誰も親なし子や言うて虐めたら、あけへんし」
その日から、君枝はだんだん明るい子になり、間もなく行われた運動会の尋二徒歩競争では、眼をむき、顎をあげて、ぱっと駈けだし、わてのお父ちゃんはマラソンの選手やった、曲り角の弾みでみるみる抜いて一着になった。
他吉は父兄席で見ていて、顔じゅう皺だらけの上機嫌だった。けれど、ふと、
「あの娘はいつも人力車のうしろに随いて走ってるさかい、一等になるのん当りまえのこっちゃ」
という囁きが耳にはいると、他吉は、
「それもそや。どや、わいの仕込み方はちがうやろ」
と胸を張る前に、なにか遠い想いに胸があつく、鉛筆の賞品を貰ってにこにこしている君枝を、くしゃくしゃに揉んで骨の音がするくらい抱きしめてやりたいくらいの、愛しさにしびれた。
ところが、その他吉がその夜君枝に向っていうには、
「お前ももう走りごく[#「走りごく」に傍点]で一等をとるぐらいの元気があんネやさかい、明日《あした》から学校をひけて来たら、日の丸湯の下足番しなはれ。わいが日の丸湯の大将によう頼んどいて来たったさかい」
びっくりするような、きびしいいいつけで、聴きつけた〆団治が、
「他あやん、お前なんちゅうむごたらしいこと言うネや。眼に入れても痛いことないいうこの子を……お前、気でも狂たんとちがうか。何もこの子に下足番ささんでも、食べて行けるやろ」
と、言うと、他吉は、
「お前は黙っとりイ。お前は寄席で喋ってたらええのや。一文の金にもならんことを、そうぺらぺら喋んな、だいたいお前は昔からわいの言うこというたら、いちいち逆らうけど、ほんまに難儀な男やぜ。えらい奴の隣りに住んでしもたもんや」
と、言った。さすがに〆団治はむっとして、
「そら、こっちの言うこっちゃ、わいも永年お前の隣りに住んでるけど、お前がこんな訳のわからん男とは知らなんだ。ああ、黙ってたるとも。お前らのまえでこれから物言うかい、お前のまえで屁もこけへんぞ」
と、出て行ったが、すぐ戻って来ると、
「――他あやん、まあ考えてみイ。この子まだ十やぜ。こんな歳でお前、下足番が出来
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