銭天婦羅屋の種吉の女房に語っているのを、他吉が男湯ではっきりきいたところによると、オトラは君枝が学校からひけて帰って来るのを、路地の入口で待ちうけて、一緒になかへはいり、飯を食べさせたり、千日前へ連れて行ったりして、他吉の帰る間際まで、君枝の相手になっていたということだった。
「今日お前千日前へ行ったんか」
 他吉は君枝のおなかを洗ってやりながら、きくと、
「行った」
「千日前のどこイ行ってん?」
「楽天地いうとこイ行った」
「おもろかったか」
「うん、おもろかったぜ。おばちゃん泣いたはった」
「なんぜや」
「芝居がかわいそうや言うて、泣いたはった。――ほんまに、おもろかったぜ」
 顎の下をシャボンをつけて、洗われながら、君枝は言った。
 他吉は手拭にぐっと力を入れて、
「なんぜいままで黙ってたんや?」
「そない言うたかテ……」
「おばちゃんが黙ってエ言うたんやろ?」
 君枝はうなずいた。
「仕様のない婆やな」
「痛い、そないこすったら痛い!」
 君枝が声をあげたので、他吉は手をゆるめて、オトラのことは成行きに任すより仕方がないと思った。
 そして、君枝が折角オトラになついて、オトラを慕っているものを、むげに引きはなしてしまうのも可哀想だと、翌る朝またオトラが飯をたきに来た時はもう他吉はきつい言葉を吐かなかった。
 オトラも要領がよく、飯をたいてお櫃にうつす前に、仏壇にそなえることも忘れなかった。君枝を学校へも送って行った。
 他吉は出て行く時、
「おばはん、君枝をたのんどきまっせ」
 と、言った。
「よろしおま、よろしおま」
 オトラは眼をかがやかし、今日も活動小屋を休む肚をきめた。
「しかし、夜さりはわいの戻って来るまえに、帰ってもらうぜ。近所の手前もあるさかいな」
 他吉は相手の顔を見ずに言った。したがってオトラがどんな顔をしたか、判らなかった。
 そんことが五日続いた。
 朝日軒のおたかはかねがね近所の誰が嫁を貰っても、また、嫁いでも、それを見ききした日は必らず頭痛を起すという厄介な習慣をもっていたが、安の定[#「安の定」は「案の定」の誤記か]オトラのことで頭痛を起して、二日ねこんだ。
 玉堂は可哀想に仲人口をきいたというので、おたかの心性をわるくし、朝日軒の奥座敷へ行っても、あまり良い顔をされなかった。

     7

 オトラがいよいよ明日あたり御蔵跡から自分の荷物をはこんで来るという日のことである。
 さすがに他吉は心がそわついて、いつもより早く俥をひきあげて、夕方まえに路地へ戻って来ると、三味線の音がきこえていた。
[#ここから2字下げ]
「高い山から
谷底見れば
瓜や茄子の
……………」
[#ここで字下げ終わり]
 三味線に合わせて歌っているのが君枝だとわかると、他吉はいきなり家の中へ飛びこんで、オトラをなぐりつけた。
「この子を芸者にするつもりか。何ちゅうことをさらしやがんねん」
 オトラは色をかえた。
「ああ痛ア。無茶しなはんな。三味線|教《おせ》るのがなにがいきまへんねん?」
 眼を三角にして食って掛り、
「――芸は身を助けるいうこと、あんた知らんのんか。斯《こ》やって、ちゃんと三味を教《おせ》とけば、この子が大きなって、いざと言うときに……」
「……芸者かヤトナになれる言うのか。阿呆! あんぽんたん」
 他吉はまるで火を吹いた。
「――そんなへなちょこ[#「へなちょこ」に傍点]な考えでいさらしたんか。ええか、この子はな、痩せても枯れても、ベンゲットの他あやんの孫やぞ。そんなことせいでも、立派にやって行けるように、わいが育ててやる。もう、お前みたいな情けない奴に、この子のことは任せて置けん。出て行ってくれ。出て行け! 暗うなってからやと夜逃げと間違えられるぜ。明るいうちに荷物もって出て行ってもらおか」
「ああ、出て行くとも」
 オトラは荷物をまとめて本当に出て行った。
「おばちゃん、どこイ行くねん」
 と、君枝が随いて行こうとするのを、他吉はいつにない怖い声で、
「阿呆! 随いて行ったら、いかん。どえらい目に会わすぜ」
 それきりオトラは顔を見せず、他吉はサバサバした。
 朝日軒のおたかはなにか昂奮して、おからを煮いて、もって来た。
 ところが、他吉が芸者やヤトナの悪口を言ったというので、同じ路地の種吉との間にいざこざが持ち上った
 種吉は河童路地の入口で、牛蒡、蓮根、芋、三ツ葉、蒟蒻、紅生姜[#「姜」は底本では「萋」となっている]、鯣《するめ》、鰯など一銭天婦羅を揚げ、味で売ってなかなか評判よかったが、そのため損をしているようであった。
 蓮根でも蒟蒻でも随分厚身で、女房のお辰の目にひき合わぬと見えたが、種吉は算盤おいてみて、
「七厘の元を一銭に商って損するわけはない」
 しかし、彼の算盤には炭代や
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