ていた君枝ははじめて微笑した。
「まあ洋食焼きみたいなもん……」
「そうだっせ、ほんまに情けない。主人《うっとこ》ももうあんた、そろそろ五十や言うのに、いまだにあんな子供みたいなもん食べたがりまんねん。みっともないこっちゃ」
 蝶子はそんな風に言ったが、ふと想いだしたように、
「――この辺にどこぞ夜店出まへんか」
「さあ……? 今日は何の日でしたかな」
「えーと……」
 考えていたが、いきなり膝をたたいて、
「――そうそう、今日はお午の日や。お午の夜店や。帰りに洋食焼き買うて帰らんと、また、小言いわれる」
 ぶくぶく肥満して、屈託の無さそうな蝶子を見ていると、君枝は瞬間慰められて、他吉の死を忘れたが、ふと、遠くの汽笛を聴くと、涙がこみあげて来た。
「勝手なことばっかり喋って……」
 君枝の涙を見て、蝶子はさすがにいい気なことを言い過ぎたことに気がついた。
「そろそろおいとまさせてもらいまひょ」
 立ち上り、階段を降りながら、しかし、蝶子はまた言った。
「――あとで、主人《うっとこ》がお邪魔するかも判れしまへんさかい、なんぞ帳面づけの用事でもあったら、さしとくなはれ。字を書くことでしたら、間に合いまっさかい」
 蝶子はかねがね柳吉の字が巧いのを、自慢していたのである。
「――へえ、おおけに。しかし、お宅かてお忙しいでっしゃろさかい、それに、帳面づけや何やかやは、隣組の人がしてくれはる言うことでっさかい」
 玄関に立つと、蝶子は、
「そんなら、ここで失礼して着せてもらいます」
 と、黒いビロードのコートを羽織った。蝶子の幸福がそのコートに現われているように君枝は思い、なにか安心した。
「さよなら、精落さんようにしとくれやっしゃ」
 蝶子が玄関の戸をあけた拍子に、君枝の眼に空がうつった。
 降るような星空だった。



底本:「織田作之助 名作選集9」現代社
   1956(昭和31)年10月31日初版発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
※底本に混在している「狭」と「狹」、「髪」と「髮」、「寝」と「寢」、「奥」と「奧」、「労」と「勞」、「来」と「來」、「潜」と「潛」、「プラネタリュウム」と「プラネタリウム」は、それぞれ「狭」、「髪」、「寝」、「奥」、「労」、「来」、「潜」、「プラネタリュウム」に統一しました。また、「伜」と「倅」は底本のママとしました。
※底本に使われている「勘忍」は「堪忍」の間違えと思われるため、すべて「堪忍」に直しました。
入力:生野一路
校正:小林繁雄
2001年9月18日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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