場内がぱっと明るくなって、ひとびとが退場してしまったあと、未だ隅の席にぐんなりした姿勢で残っている薄汚れた白い上衣の老人があった。
「あ、また、居眠ったはる」
 よくある例で、星空を見ながら夜と勘ちがいして居眠ってしまったのかと、係の少女が寄って行って、
「もし、もし、実演はもう済みました。もし、もし」
 揺り動かしたが、重く動かず、顔が真蒼だった。死んでいたのだ。
 四ツ橋で南十字星を見たという〆団治の話を聴いて、君枝が〆団治らの慰問隊を見送りに行った留守中に寝床を這いだして来ていたのか、それは他吉だった。
 上衣のポケットに新太郎がマニラから寄越した色あせた手紙がはいっていたので、身元はすぐ判った。
 他吉の死骸はもとの寝床に戻った。
 枕元の壁の額に入れられたマラソン競争の記念写真の中から、半分顔を出して、初枝がそれを覗いていた。
 他吉の死骸は和やかであった。
 羅宇しかえ屋の婆さんがくやみに来て、他吉の胸の上で御詠歌の鈴を鳴らし、
「他あやん、良えとこイ行きなはれや」
 と、言うと、君枝は寝床の裾につけていた顔をあげて、
「おばちゃんお祖父ちゃんは、言わんでも、もうちゃんと良えとこイ行ったはる。南十字星見ながら死にはったんやもん。見たい見たい思てはった南十字星見ながら、行きたい行きたい言うたはったマニラへ到頭行かはったんや。お祖父ちゃんの魂は〆さんより早よマニラへ着いたはりまっせ」
 と、言った。
 鈴《りん》の音が揺れた。
 次郎はふと君枝の横顔を見て、ああ、他あやんに似ていると、どきんとした咄嗟に、今度は自分たちがマニラへ行く順番だという想いが、だしぬけに胸を流れた。
 他あやんはついぞこれまで、言葉に出しては、アメリカの沈船を引揚げにマニラへ行けとは言わなんだけれど、〆団治が南方へ旅立つその日、マニラへの郷愁にかりたてられて、重い病気をおして星の劇場へ行き、南十字星を見ながら死んだのを見れば、もう理窟なしに、お前もマニラへ来いと命じられたのも同然だ、いや、君枝を娶った時からもうことは決っていたのだ。これが佐渡島他吉一家の家風だという想いが、なにか生理的に来て、昂奮した胸を張ると、壁の額の写真が眼にとまった。
 鈴の音がしきりに揺れた。
「良えとこイ行きなはれや」
 羅宇しかえ屋の婆さんは泣きながら、
「――寒い時に死んでも、他あやん、お前は今頃は暑い国でよう温《ぬく》もってるこっちゃろ」
 と、言った。誰も笑わなかった。
 鈴の音で寝かしてあった勉吉が眼を覚まし、泣きだした。
 君枝は抱き上げて、
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「船に積んだアら
どこまで行きゃアる
木津や難波の橋の下ア」
[#ここで字下げ終わり]
 子供の頃、他吉が俥に乗せて、きかせてくれた子守歌を小声でうたっていると、ぽたぽた涙が落ちて来た。
「今晩は……」
 女の声がした。遠慮がちに低めていたが、それでもきんきんとよく通る声だった。聴くなり蝶子だと判った。
「蝶子はんや」
 君枝は涙を拭いて、
「――あんた、蝶子はん来てくれはりましたぜ」
 と、次郎に言った。
「そうか」
 次郎はかつて、「蝶柳」で遊んで蝶子や柳吉に意見された時のことをちょっと思いだした咄嗟に、
「そうだ、マニラへ行こう」
 声に出して呟いた。
「――君枝ももちろん一しょに行くやろ」
 蝶子はおくやみが済むと、居合わした人へ遠慮しながら、
「ちょっと……」
 と、言って、君枝に眼交した。
 君枝は二階へ上った。蝶子は随いて上って来て、
「あんた、葬式に着るもん持ったはれへんやろ思て、持って来たげてん」
 と、風呂敷包みを君枝に渡した。
「えらい心配かけて、済んまへん」
 君枝は蝶子がその喪服をつくった時のことを知っていた。柳吉の父親の病気がいよいよいけなくなった時、葬式に出られるつもりで、蝶子はそれをつくったのだった。が、参列をはねつけられて、蝶子はどんなにそれを悲しんだことか。
 が、それも今は遠い出来ごとで、蝶子の悩みの種であった柳吉の娘も、去年の暮に結婚して、その婚礼には蝶子も柳吉と一緒に出席したという。
 恐らく、この喪服を貸してくれる今の蝶子の気持にはなにひとつ暗い影は射していないであろうと、君枝は思いながら、受け取った。
「あんたも、両親には縁が薄いし、他あやんはとられてしまうし、ほんまに運がわるいなあ。しかし、次郎さんがしっかりしたはるさかい、心強いわな」
 蝶子はそう言ったあと、
「――主人《うっとこ》もこの頃はとんと真面目になってな、酒は飲まへんし、食物の道楽もせんようになったし、まあ、夜店の洋食焼きを毎晩食べたがるくらいなもんや」
 柳吉のことを嬉しそうに言った。おくやみに来て、亭主ののろけを言うのがいかにも蝶子らしいと、今日一日笑う力を失っ
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