地へ連れ戻して置けば、次郎はもうあとの心配もなく、かつ発奮して再び潜りだすだろうという他吉の単純な考えを、君枝もまた持たぬわけではなかったのだ。もちろん、次郎が潜りだせば、他吉の気も折れて、もと通り一緒に暮せるだろうとの呑気な気持で、今のうちに祖父に孝行して置こうとせっせと働いていたのだった。
ところが、ある日、蝶子がひょっくり河童路地へ顔を見せて、君枝を掴えて言うのには、
「あんた、ぼやぼやしてたら、あかんしイ」
「いったい何やの?」
「何やのて、ほんまに、えらいこっちゃ。あんたとこの人が、昨夜《ゆんべ》うちの店へ来て、散財しやはってん」
「えッ?」
君枝は驚いた。次郎は酒は潜水病のもとだと言って、これまで一滴も飲まなかったのに、いつの間に飲むようになったのかと、本当には出来なかった。
「うちかて商売やさかい、お酒を出さんわけにはいかへんし、といって、あんたの旦那はんにあんまり散財させるわけにいかへんし、ほんまに困ったわ。因果な商売してしもたもんや」
謝るように蝶子は言った。
「いいえ、そんなこと。ほんまに心配かけてしもて」
君枝がそう言うと、蝶子はさてといった顔になって、
「しかし、あんたも気イつけんとあかんし。うちとこの主人《おっさん》もこの頃だいぶ考えが変って真面目になって来たさかい、飲ますだけ飲ましてから、あんたとこの旦那はんを二階へあげて、意見するつもりでだんだん訊いてみると、やっぱり酒飲みはるのも無理はないわな」
潜水夫をやめて他の職に就くつもりで、あちこちと職を探して歩いたところが、なかなか見当らず、といって、意地からでももとの潜水夫に戻るわけにはいかず、おまけに君枝には去られている。当然気を腐らして、酒を飲むようになったのだという。
「――何よりも他あやんがあんたを連れ戻したことを、だいぶ根に持ってはるらしかった。うちの主人《おっさん》も言うてたが、やっぱり男は女房に去られるほど、淋しいもんは、ないらしい。ここを、君ちゃん、よう噛み分けて考えなああきまへんぜ」
「そんなら、潜る気はちょっともおまへんねんな」
君枝はすっかり当てが外れた想いで、蒼い溜息をついた。
「そういう気は持ったはれへんやろな。わての考えでは、あんたがこっちへ帰ったはる限り、意地からでも潜りはれへんと思うな」
蝶子は苦労人らしく、しみじみした口調で言った。
「――まあこのまま放って置いたら、ますます道楽しやはる一方や。やっぱり、あんたが帰ってあげんと……」
日が暮れて、蝶子は粉雪をかぶりながら帰って行った。
君枝は帯の間に手を差し入れて、暫らく考えこんでいたが、やがて路地を出て行くと、足は市電の停留所へ向いた。
電車が大正橋を過ぎる頃、しとしと牡丹雪になった。
境川で乗り換えて、市岡四丁目で降りた。そこから三丁の道はもう薄白かった。傘を持って出なかったので、眉毛まで濡れたが、心は次郎なつかしさに熱く燃えていた。
ところが、鍵が掛っていた。合鍵をもっていたので、あけて中にはいった。手さぐりで燈りをつけ、見渡すと、火の気ひとつなく、寒むざむとしていた。
火をおこし、火鉢の傍で何時間か待ったが、次郎は戻って来なかった。この雪の晩にどこを飲み歩いているのかと、君枝は身動きひとつしなかった。
犬の遠吼えがきこえた。
だんだん夜が更けて来た。
炬燵に炭団を入れていると、荒あらしく戸を敲く音がした。
玄関へ出て見ると、見知らぬ人が立っていて、お宅の主人がトラックにはね飛ばされて、大野病院へはいっているという知らせだった。君枝は立ったまま、ぺたりと尻餅ついた。
8
命は助かったが、退院までには三月は掛るだろうという大怪我だった。
「あんぽんたん奴! 働きもせんとぶらぶら飲み歩いてるような根性やさかい、ぼやぼやして怪我もするネや」
他吉は知らせをきいて言ったが、しかしさすがに怒った顔も見せられず、毎日病院を見舞った。
君枝はもちろん三等病室で寝泊りし、眠れぬ夜は五日も続いたが、二週間ばかりするといくらか手が離せるようになった。
その代り、病院の払いに追われだした。もともとはいるだけ使ってしまうという潜水夫の習慣で、たいした蓄えもなく、そのわずかの蓄えも遊んでいるうちに、すっかり使っていた。
頼りにする鶴富組の主人は△△沖の方へ出張していたし、おまけに、次郎をひいたトラックの運転手は、よりによって夫の死後女手ひとつで子供を養っているという四十女で、そうと聴けば見舞金も受けとれなかった。
「貴女《おうち》が悪いんのんとちがいま。うちの人がなんし水の中ばっかしで暮して来やはったんで、陸の上を歩くのが下手糞だしたさかい、おまけに雪降りの道でっしゃろ?」
無理に笑って、見舞金を突きかえした。
女運転手は恐縮
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