の親爺さんにそう言って、譲って貰えば良いのに……。案外遠慮深いんだなあ、お君ちゃんは……」
 と、言った。
「そんでも、なんや厚かましゅうて……」
「そんなら僕がそう言って、貰ってあげましょうか。ちょっと待って下さい。どこイも行かんと……。行ってしもたら、駄目ですよ」
 次郎はそう言うと、二段ずつ階段を上って行った。
 君枝は暑さを忘れた。
 暫らくすると、半ズボンの写真館の男といっしょに、降りて来た。
「これです」
 次郎が陳列窓の写真を太短い手で指すと、
「これでっか。こら、あんた、骨董物でっせ」
 写真館の男は言ったが、
「――しかし、まあ、そんな事情でしたら、譲りまひょ」
 と、陳列ガラスを外して、その写真をとってくれた。
 そんな次郎の親切が君枝は思いがけず、嬉しくて、子供の頃親なし子だといって虐められた時、かばって呉れたのは次郎ぼんひとりだったと想いだすと、君枝はその電気写真の筋向いにある喫茶店へはいって、冷たいものでも飲もうとすすめられたのを、もう断り切れなんだ。
 珈琲をのみながら、他吉の話が出た。
「いまだに俥ひいてますねん。今日は生国魂さんのお渡御《わたり》や言うて……」
「……鎧着て出たはるんですか」
 次郎はちょっと驚いた顔だったが、
「これもみな、うちに甲斐性が無いさかい……」
 と、しょげかかる君枝を押えて、わざと、歳はとってもやっぱり「ベンゲットの他あやん」は元気でんなあと微笑んで見せ、
「それじゃ、何ですか、今でもやっぱり人間はからだを責めて働かな嘘やという主義は、守ってはるんですなあ」
 と、君枝をかばう口調になった。
「――そう言えば、僕だって、他あやんのあの口癖はときどき想いだしましたよ。いや、げんに今だって……」
 自分はからだ一つが資本の潜水業が仕事で、二十二の歳からこの道にはいり、この七年間にたいていの日本の海は潜って来、昨日から鶴富組の仕事で、大阪の安治川へ来ているのだと、次郎は語った。
「……もっとも、こんどのはたいした仕事じゃなく、お話にならんくらいのちいさな船の解体で、たいして乗気じゃなかったんだが、しかし大阪ときくと懐しくてね、ついふらふらと来てしもたわけですよ」
 次郎は君枝にどの程度の親しさで語って良いか、迷っているような言葉づかいであった。
 が、君枝はざっくばらんな言い方に頼もしさを感じ、ふとまじる大阪訛りになつかしさをそそられ、丁寧な口調の出る時は何か赧くなった。
 次郎は珈琲を何杯もおかわりし、ストローを使わずに、がぶがぶと一息にのみほし、氷のかたまりも瞬く間に咽へ入れてしまった。
 そんな逞ましい飲み振りを見ていると、君枝はふと次郎がかつて日の丸湯の男湯で、ひとりあばれまわって、番台からよく叱られていたことなどを想いだしたので、そのことを言うと、
「そうそう、僕は日の丸湯の中で、〆さんが五十読む間、潜ってたことがあるよ。いつだったか、〆さんがあんまりゆっくり数を読むので、もうちょっとで眼をまわしかけて〆さんの足にしがみついたら、〆さんがびっくりして飛び上ったもんやから、そいで僕も頭を出したけど、〆さんが飛び上らなんだら、僕もうあの時におだぶつやった」
 次郎は存外話し上手で、
「――しかし、考えてみたら、あの時分から僕は潜るのが好きやったんやなあ」
 だから、東京の品川にある写真機店へ奉公に行って三年、ひと通り現像の仕事を覚えた頃には、もうそこを飛びだして、現像を頼みに店へよく来ていた木下という写真道楽の潜水夫の世話で、房州布良の吉田親分のところへ弟子入りして、潜水夫の修業をはじめた。
 普通潜水の修業は、喞筒《ポンプ》押し一年、空気管持ち一年、綱持ち一年で、相|潜《もぐ》りとなるまでには凡そ四年掛るのだが、それを天分があったのか、それとも熱心の賜でか、弟子入りして二年目にはもう相潜りになった。
 いったいに潜水夫の仕事は、沈船作業(単に荷物を揚げるような簡単なものから、爆破解体、巨大船の浮上のような大規模なもの)のほかに、築港、橋梁、船渠等の水底土木作業や水産物の採集などであるが、沈船作業は主として春から夏の頃の凪ぎの海に限られており、水産物採集には勿論漁期がある。だから陸上工場のように絶えず仕事が一定しているわけではなく、その間生活の安定を得るためには、これらの特技のうち二つ乃至三つの種類に馴れる必要があるが……、
「自慢するようやけど、僕は一人前の潜水夫になってから、三年のうちに、必要な技術をすっかり覚えてしまったわけですよ」
 と、次郎は語った。
「しかし、現像の方かてころっと忘れてしもたという訳じゃないですよ。いまだに仲間の撮したのを時々現像してやってるけど――そうそう、お君ちゃん、あんたの今の写真、なんやったら僕が味善《あんじょ》う引伸したげよか、
前へ 次へ
全49ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング