疲れた。
馴れぬ客はまごつき、運転手も余り歓迎せぬ制度ゆえ、案内嬢は余程の苦労が要る。親切・丁寧・敏速でなくてはいけぬと、監督は口癖だった。
しかし、君枝は、そんなにまで勤めなくともと監督が言うくらい、熱心で、愛嬌もあり、客の捌きも申し分なく、親切週間に市内版の新聞記者が写真と感想をとりに来て、美貌のせいもあり、たちまち難波駅の人気者になった。
小柄の一徳か、動作も敏捷で、声も必要以上にきんきんと高く、だから客たちは、ほう綺麗だなと思っても、うっかり冗談を言いかける隙がなかった。
自分でも、難波駅の構内から吐きだされて来る客を、一列に並ばせて、つぎつぎと捌いて行く気持は、なんとも言えず快いと思った。
けれど、何千という数の客を捌き終って、交替時間が来て、日が暮れ、扉を閉めた途端にすっとすべりだして行く最後の車の爆音を聴きながら、ほっと息ついて靴下止めを緊めなおしていると、ふと、
「お祖父《じ》やんは人力車アで、孫は自動車《えんたく》の案内とは、こらまたえらい凝って考えたもんやなあ」
と口軽に言った〆団治の言葉が想いだされて、機械で走る自動車と違って、人力車はからだ全体でひかねばならぬ――と、祖父の苦労を想ってにわかに心が曇った。
そんな君枝の心は、しかし他吉は与り知らず、七月九日の生国魂《いくたま》[#ルビはママ]神社の夏祭には、天婦羅屋の種吉といっしょに、お渡御《わたり》の人足に雇われて行くのである。
重い鎧を着ると、三十銭上りの二円五十銭の日当だ。
「お祖父ちゃん、もう今年は良え加減に、鎧みたいなもん着るのん止めときなはれ。うち拝むさかい、あんな暑くるしいもん着んといて……」
君枝は半泣きで止めるのだったが、他吉はきかず、
「阿呆らしい、ひとを年寄り扱いにしくさって……。去年着られたもんが、今年着られんことがあるかい。暑い言うたかて、大阪の夏はお前マニラの冬や」
「そんなこと言うたかて、歳は歳や。羅宇しかえ屋のおっさんかて、こないだ流してる最中にひっくりかえりはったやないか。お祖父《じ》やんにもしものことあったら、どないすんのん?」
「げんのわるいこと言いな。あんな棺桶に半分足突っ込んだおっさんと同じようにせんといて……。生国魂はんのお渡御《わたり》の中にはいるもんが、斃れたりするかいな、ちゃんと生国魂はんがついてくれたはる――ああ、今年もベンゲットの他あやんが来とるなあ言うて、守ってくれはるわいな」
心配しな、心配しなと、矢張り他吉は鎧の方に廻るのだった。
丁度その日は君枝の公休日だった。
よりによってそんな日にぶらぶらしていることが、君枝はなにか済まぬ気がして、枕太鼓や獅子舞いの音がきこえても、お渡御《わたり》を見る気もせず、夜他吉が帰ってから食べられるように、冷やしそうめんをこしらえて、井戸水の中に浸けたあと、生国魂神社へお詣りすると、足は自然下寺町の坂を降りて、千日前の電気写真館の方へ向いた。
もとあった変装写真や歌舞伎役者の写真がすっかり姿を消して、出征の記念写真が目立って多くなっているなかに、どうした奇蹟であろうか、二十年前のマラソン競争の記念写真が、色あせたまま、三枚一円八十銭の見本だと、値だけ高くなって陳列されているのを見ると、気が遠くなるほどなつかしかった。
――大阪の夏はお前マニラの冬やと祖父が言ったところを見ると、マニラは余程暑いところであろう。そういうところで死んだ父親にふさわしく、ランニングシャツ一枚の裸かでニコニコ笑いながら、優勝旗を持って立っている父親の黄色く色あせた顔を、まるで陳列ガラスを舐めんばかりにして、みつめていると、不意に、
「お君ちゃん――と違いますか」
声をかけられた。
振り向いて、暫らく顔をみつめてから、
「あ。次郎ぼん!」
九年前、東京へ奉公に行き、それから二年のちにたったひとりの肉親の父親が蝙蝠傘の骨を修繕している最中に卒中をおこして死んだ報せで、河童路地へ帰って来た時、会うたきり、もう三十そこそこになっている筈だとすばやく勘定した拍子に、君枝はそんな歳の彼を次郎ぼんという称び方したことに想い当り、はっと赧くなっていると、次郎は、
「やっぱり君ちゃんやった。いや、なに、この写真を見たはるんでね、そうじゃないかと思ったんや」
大阪弁と東京弁をごっちゃに使って言い、
「――〆さんに連れられて、この写真いっしょに見たのは、あれはもう十年も前でんなあ。――お君ちゃんはいつもこれ見に来るの?」
「ええ。もう十日にあげず……」
暑さのせいばかりではなく、汗が全身を絞った。次郎は背も高く、肩幅も広く、顔だちもきりりとしていた。濃い眉が日焼けした顔によく似合っていた。
その眉をすこし動かせて、次郎はふっと笑い、
「しかし、それやったら、写真館《ここ》
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