は叫んで、俥をおっぽり出して、推寺町から大江神社の境内まで追うたが、ふところに君枝に買うてやった空気草履がはいっているのに気をとられて思うように走れず、到頭逃がしてしまった。
 そして、もとの場所へ戻って来ると、俥が見えない。他吉は蒼くなった。
 その夜、他吉は日の丸湯へ来なかった。朝出しなに、
「今日は空気草履買うて来たるぜ。日の丸湯へもって行ったるさかい、待ってや」
 と、言った祖父の言葉をあてにして、君枝はいま来るか、いま来るかと日の丸湯の下足場でちいさな首をながくしていたが、来ず、空しく十二時をきいた。
「お祖父やんのけちんぼ」
 君枝は給料のほか盆正月の祝儀など、収入《みい》りの金は一銭も手をつけず、そっくりそのまま他吉に渡していたが、他吉は黙って受けとり、腹巻きに入れてしまうと、そのうちの一銭、二銭を、玉焼きでも買いイなと出してくれた例しもなく他のことは知らず、金のことになるとまるで人が変ったようになる日頃の他吉の気性を子供心に知っていたから、日の丸湯の暖簾を入れて飛んで帰ると、思わずそんな言葉が出た。
「――嘘ついたら、エンマはんに舌抜かれるし」
 そして、上ると、他吉はもう蒲団をかぶって寝ていて、枕元にコンニャクの形の空気草履が並べて置いてあった。
 それでは、お祖父やんはびっくりさせようと思って、わざと日の丸湯へ来ず、枕元に置いて、自分は寝た振りしているのだろうと、君枝は思って、こっそり空気草履を足にひっかけ、部屋の中をあるきながら、
「ああ、良え音するわ、ペタ、ペタ、ペタ、ペタ、この音寝てる人に聴えへんのやろか」
 遠まわしに他吉を起すと他吉は、
「聴えることは聴えるけどな……」
 精の抜けた寝がえりを打って、しょんぼりした顔をふわーっと、蒲団からだした。そして、言うことには、
「――君枝お前は感心な奴ちゃな。文句もいわんと毎日よう動《いの》いてくれる。それやのに、わいはなんちゅうど阿呆[#「ど阿呆」に傍点]やろ。ほんまに子供のお前に恥かしいわ」
「お祖父やん、どないかしたんか。草履買うて釣もらうのん忘れたんか」
「それどころの騒ぎやあるかい」
 他吉は大人に物言うような口調になり、
「――阿呆の細工に、十姉妹追いかけてる隙に、俥盗られてしもてん。えらいことになってしもた。明日から商売でけん」
 だから、日の丸湯へ顔出しする元気もなく、こうやって
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