で早速工事場へ濡れ鼠の姿を、首垂れて現わした。
マニラのキャッポ区に雑貨商を出している太田恭三郎が、アメリカ当局と交渉して、ベンゲット移民への食料品納入を請負い、味噌、醤油、沢庵、梅干などを送って来てくれたのは、そんな時だった。
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全長二十一マイル三十五のベンゲット道路が開通したのは、香港丸がマニラへ入港してから一年四ヵ月目の明治三十八年一月二十九日であった。
千五百名の邦人労働者のうち六百名を超える犠牲者があったと、開通式の日に生き残った者は全部泣き、白人・比律賓人・支那人たちが三年の日数と七十万ドルの金を使ってもなお一キロの開鑿も出来なかった難工事を、われわれ日本人の手で成しとげたのだという誇りはあっても、喜びはなかった。
おまけに工事が終ると、翌日からひとり残らず失業者で、なんとかしてくれと泣きつくには、アメリカ当局はあまりに冷淡であった。山を下り、マニラの日本人経営の旅館でごろごろしているうちに、儲けた金も全部使い果して、帰国するにも旅費はなく、うらぶれた恰好で、マニラの町をぞろぞろうろうろしているのを、見兼ねて、[#底本では、改行後はじめの一字さげ無し]
「皆んな、ダバオの麻山へ働きに行け!」
太田恭三郎はすすめたが、ダバオはモロ族やバゴボ族以外に住む者のないおそろしい蛮地で、おまけにマラリヤのたちの悪さはベンゲット以上で、医者もいない。ダバオの麻山からベンゲット道路工事の方へ逃げだして来た者もあるくらいだ、そんなところへ誰が命を捨てに行くものかと、誰ひとり応じようとしなかったのを、日本人の医者も連れて行く、味噌も野菜も送ってやる、わるいようには計らぬ故、おれに任せろと太田は説き伏せた。
「このまま餓死すると思えば、ダバオも極楽だぞ」
言われてみると、なるほど背に腹はかえられず、やがてマニラからぼろ汽船で二十日近く掛ってダバオにつき、遠くの森から聴えて来るバゴボ族の不気味なアゴンの音に肝をひやしながら、やがて麻山で働きだし、暫らくすると、バギオにサンマー・キャピタル(夏の都)がつくられて、ベンゲット道路がダンスに通う米人たちのドライヴ・ウェーに利用されだしたという噂が耳にはいった。
そんな目的でおれたちの血と汗を絞りとっていたのかと、皆んなは転げまわって口惜しがり、工事が済むといきなりおっぽり出されたことへの怒りも砂を噛む想い
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