すべては約束とちがっていたのだ。
こんな筈ではなかったと、鶴田組の三百名はとうとう人夫頭といっしょに山を下ってしまった。
そうしたものの、しかし雇われるところといってはマラバト・ナバトの兵営建築工事か、キャビテ軍港の石炭揚げよりほかになく、日給はわずかに八十セントで、うち三十五セントの食費を差し引かれるようではお話にならず、また、比律賓人の空家にはいりこんで自炊しながらの煎餅売りも乞食めく。
良い思案はないものかと評定していると、関西移民組合から派遣されて来たという佐渡島他吉が、
「言うちゃなんやけど、今日まで生命があったのは、こら神さんのお蔭や。こないだの山崩れでころッと死[#文泉堂書店版では「《い》」のルビ]てしもたもんやおもて、もういっぺんベンゲットへ戻ろやないか。ここで逃げだしてしもてやな、工事が失敗《すかたん》になって見イ、死んだ連中が浮かばれへんやないか。わいらは正真正銘の日本人やぜ」
と、大阪弁で言った。すると、
「そうとものし、俺《うら》らはアメジカ人やヘリピン人や、ドシア人の出来なかった工事《こうり》を、立派《じっぱ》にやって見せちやるんじゃ。俺《うら》らがマジダへ着いた時、がやがや排斥さらしよった奴らへ、お主《んし》やらこの工事《こうり》が出来るかと、いっぺん言うて見ちやらな、日本人であらいでよ」
と、言う者が出て、そして、あとサノサ節で、
「一つには、光りかがやく日本国、日本の光を増さんぞと、万里荒浪ね、いといなく、マニラ国へとおもむいた」
と、唄いだすと、もう誰もベンゲットへ帰ることに反対しなかった。
そうして、元通り工事は続けられたが、斃れた者を犬死ににしないために働くという鶴田組の気持は、たちまち他の組にも響いて、何か殺気だった空気がしんと張られた。
屍を埋めて日が暮れ、とぼとぼ小屋に戻って行く道は暗く、しぜん気持も滅入ったが、まず今日いちにちは命を拾ったという想いに夜が明けると、もう仇討に出る気持めいてつよく黙々と、鶴嘴を肩にした。
鉛のように、誰も笑わず、意地だけで或る者は生き、そして或る者は死んだ。
三十七年の十月の或る夜、暴風雨が来て、バギオとは西班牙《スペイン》語で暴風のことだと想いだした途端に、小屋が吹き飛ばされ、道路は崩れて、橋も流された。それでも腑抜けず、ぶるぶるふるえながら夜を明かすと、死骸を埋めた足
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