から自分の荷物をはこんで来るという日のことである。
 さすがに他吉は心がそわついて、いつもより早く俥をひきあげて、夕方まえに路地へ戻って来ると、三味線の音がきこえていた。
[#ここから2字下げ]
「高い山から
谷底見れば
瓜や茄子の
……………」
[#ここで字下げ終わり]
 三味線に合わせて歌っているのが君枝だとわかると、他吉はいきなり家の中へ飛びこんで、オトラをなぐりつけた。
「この子を芸者にするつもりか。何ちゅうことをさらしやがんねん」
 オトラは色をかえた。
「ああ痛ア。無茶しなはんな。三味線|教《おせ》るのがなにがいきまへんねん?」
 眼を三角にして食って掛り、
「――芸は身を助けるいうこと、あんた知らんのんか。斯《こ》やって、ちゃんと三味を教《おせ》とけば、この子が大きなって、いざと言うときに……」
「……芸者かヤトナになれる言うのか。阿呆! あんぽんたん」
 他吉はまるで火を吹いた。
「――そんなへなちょこ[#「へなちょこ」に傍点]な考えでいさらしたんか。ええか、この子はな、痩せても枯れても、ベンゲットの他あやんの孫やぞ。そんなことせいでも、立派にやって行けるように、わいが育ててやる。もう、お前みたいな情けない奴に、この子のことは任せて置けん。出て行ってくれ。出て行け! 暗うなってからやと夜逃げと間違えられるぜ。明るいうちに荷物もって出て行ってもらおか」
「ああ、出て行くとも」
 オトラは荷物をまとめて本当に出て行った。
「おばちゃん、どこイ行くねん」
 と、君枝が随いて行こうとするのを、他吉はいつにない怖い声で、
「阿呆! 随いて行ったら、いかん。どえらい目に会わすぜ」
 それきりオトラは顔を見せず、他吉はサバサバした。
 朝日軒のおたかはなにか昂奮して、おからを煮いて、もって来た。
 ところが、他吉が芸者やヤトナの悪口を言ったというので、同じ路地の種吉との間にいざこざが持ち上った
 種吉は河童路地の入口で、牛蒡、蓮根、芋、三ツ葉、蒟蒻、紅生姜[#「姜」は底本では「萋」となっている]、鯣《するめ》、鰯など一銭天婦羅を揚げ、味で売ってなかなか評判よかったが、そのため損をしているようであった。
 蓮根でも蒟蒻でも随分厚身で、女房のお辰の目にひき合わぬと見えたが、種吉は算盤おいてみて、
「七厘の元を一銭に商って損するわけはない」
 しかし、彼の算盤には炭代や
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