ろへ、他吉がひょっくりはいって来た。
「敬さん。また無心や」
「なに貸してほしいねん?」
「さいな。今日は剃刀とちがう。あんたの学を貸してほしいねん」
「安い御用やが……」
敬吉は講義録など読み、枢密院の話などを客にして、かねがね学があると煙たがられていた。
「これをひとつ読んでほしいねん」
マニラからの手紙を渡すと、敬吉は剃刀を片手に眼を通した。
「どうせ婿の新太郎から来た手紙や思いまっけど、なんぞ言うとりまっか。マニラは暑うてどんならん言うとりまっか」
敬吉はしかしそれに答えず、
「他あやん、えらい鈍《どん》なこっちゃけど、こらわいには読めんわ」
と、びっくりした顔だった。
「えらいまた敬さんに似合わんこっちゃな、どれ、どれ、わいにかして見イ、わいが読んだる」
客は散髪台の上に仰向けになったまま、他吉の手からその手紙を受けとったが、すぐ、あっと声をのんで、
「わいにも読めんわ。えらい鈍なことで……」
と言いながら、滅法高い高下駄をはいた見習小僧にそれを渡した。
「――お前読んでみたりイ」
「へえ」
そして、読みだした小僧の声は、筑前琵琶の音にところどころ消されたが、他吉の胸に熱く落ちて来た。
マニラへ行っていた婿の新太郎が、風土病の赤痢に罹って死んだ旨、新太郎に部屋を貸している人からの報らせの手紙だった。
「なんやて? さっきのとこもういっぺん読んで見てんか。一昨日の……?」
「一昨日の午前二時、到頭看護及ばず逝去されました」
「セイキョてなんやねん」
「死ぬこっちゃ」
小僧は十六歳だった。
瓦斯燈がはいって、あたりはにわかに青い光に沈んだ。
理髪店の大鏡に情けない顔をちらと蒼弱くうつして、しょんぼり表へ出ると、夜がするする落ちて来た。
他吉は腑抜けて、ひょこひょこ歩いた。
3
それから半時間も経ったろうか、他吉はどこで拾ったのか、もう客を乗せて夜の町を走っていた。
通天閣のライオンハミガキの広告燈が青く、青く、黄色く点滅するのが、ぼうっとかすんで見えた。
客は他吉の異様な気配をあやしんで、
「おやっさん、どないしてん? 泣いてるのんと違うか」
「泣いてまんねん」
「えっ?」
客はその返辞の仕方のほうに驚いてしまった。
「――こらまたえらい罪な俥に乗ってしもたもんや。これから落語ききに行こちゅうのに、無茶苦茶やがな。
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