た。養子に取られてしまった財産にはもう未練がないとしても、さすがに娘のことは忘れかねて、浄瑠璃の稽古もそんな心のふさぎを忘れるためであるかも知れなかった。してみれば、蝶子も今は何ひとつ遠慮気兼ねや生活の心配はないとはいうものの、心はからりと晴れ切っているわけでもないだろうと、君枝は蝶子が日頃陽気な明るい気性であるだけに、一層蝶子の淋しさが同情されるのだった。
 文楽座の前まで来たのでもう蝶子の話を打ち切った。
 ところが、文楽座は人形芝居はかかっていず、古い映画を上映しているらしく、映画のスティールが陳列されていた。人形芝居は夏場の巡業で東京へ行っているとのことだった。
「なんのこっちゃ。折角大阪へ来て文楽でも見よういう気になったのに、これやったら、わざわざ大阪で見なくても、東京に居れば結構見られた勘定やな」
 次郎はちょっとがっかりした。
「――活動でも見る」
「今日は紋日で満員でしょう?」
 君枝は見る気がないらしかった。
 なんだかこのまま別れて帰ってしまいたいように思っているらしく見えて、次郎はますますがっかりしたが、ふと想いだして、眼を輝かした。
「そや、良いものがある。あんたの喜ぶもん見せたげよ」
「どんなもん? うちの喜ぶもんて……」
「黙って随いといぜ。ついこの近所や。僕昨日見て、ああ、これをお君ちゃんに見せたげたら喜ぶやろと、ほんまに思ったんや」
「そうオ? いったい、なんやの?」
 言いながら、次郎のあとに随いて行くと、次郎は四ツ橋の電気科学館の前まで来て、
「ここや」
 と、立ち停った。
 そこには日本に二つしかないカアル・ツァイスのプラネタリュウム(天象儀)があり、この機械によると、北極から南極まで世界のあらゆる土地のあらゆる時間の空ばかりでなく、過去・現在・未来の空まで居ながらにして眺めることが出来るのだという次郎の説明をききながら、昇降機に乗って、六階で降り「星の劇場」へはいっていった。
 円形の場内の真中に歯医者の機械を大きくしたようなプラネタリュウムが据えられ、それを円く囲んで椅子が並んでいる。
 腰を掛けると、椅子の背がバネ仕掛けでうしろへそるようになっていた。
「朝日軒の椅子みたいやわ」
 君枝が言うと、
「天井に映るんだから、上を見やすいようにしてあるんだよ」
 次郎は言い、
「――朝日軒の人みな達者ですか。義枝さん死んだのは知
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