い、ちりちり胸が痛んで眉をひそめていると、次郎はいそいそと出て来て、
「こっち歩きましょう」
片影の方へ寄った。君枝の眉をひそめた表情を、日射のせいだと思ったのである。
写真館の隣りに寄席があった。
寄席の隣りに剃刀屋があった。
次郎は剃刀屋の細長い店の奥を覗いてみたが、十年前にそこにいた柳吉の姿はもうそこに見受けられなかった。
が、剃刀屋の向いには、相変らず鉄冷鉱泉[#底本では「鉄霊鉱泉」と誤記]《むねすかし》屋があった。
剃刀屋の隣りに写真屋があった。
写真屋の隣りに牛肉店があった。
名も昔通りのいろは牛肉店で、次郎は千日前はすこしも変らぬなと思いながら通り過ぎようとすると、君枝はなに思ったのか、
「ちょっと……」
と、言って立ち停り、そして、いろはの横町へはいって行った。
そこは変にうらぶれた薄汚ないごたごたした横町で、左手のマッサージと看板の掛った家の二階では、五六人の按摩がお互い揉み合いしていた。その小屋根には朝顔の植木鉢がちょぼんと置かれていて、屋根続きに歯科医院のみすぼらしい看板があった。看板が掛っていなければ、誰もそこを歯医者とは思えぬような、古びたちっぽけな[#「ちっぽけな」に傍点]しもたや風の家で、頭のつかえるような天井の低い二階に治療機械が窮屈にかすんで置かれてあった。
右手は薄汚れた赤煉瓦の壁で、門をくぐると、まるで地がずり落ちたような白昼の暗さの中に、大提燈の燈や、蝋燭の火が揺れて、線香がけむり、自安寺であった。なにか芝居の書割りめいた風情があった。
こんなところに寺の裏門があったのかと、次郎がおどろいていると、君枝は、
「ちょっと……」
待っていてくれと言って、境内の隅の地蔵の前にしゃがんで、頭を下げ、そして、備え付けの杓子で水を掛けて、地蔵の足をたわしでしきりに洗い出した。
地蔵には浄行大菩薩という名がついているのを、ぼんやり眼に入れながら、
「お君ちゃん、えらい信心家やねんなあ。なんに効く地蔵さんやねん?」
傍で突っ立っている所在なさにきくと、君枝は、
「何にでも効くお地蔵さんや」
と、手と声に力を入れて、
「――かりに眼エが悪いとしたら、このお地蔵さんの眼エに水掛けて、洗《あろ》たら良うなるし、胸の悪い人やったら、胸の処《とこ》たわしで撫でたらよろしおますねん」
しきりに洗いながら、言った。
なる
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