にかく行くことにした。
「じゃあ、これ持って行きなはれ」
主任はめずらしく、市電の回数券を二枚ちぎってくれた。
動物園前で市電を降り、食物屋や[#底本では「食物屋が」と誤記]雑貨屋がごちゃごちゃと並んだ繁華な大門通りを抜けて、大門の近くで右へ折れると、南海電車の萩の茶屋の停留所の手前に、
「ヒチ、大西」
と青い暖簾がかかっていた。
入口でちょっとためらい、ちらとそのあたりを見廻してから、
「今日は」
と、はいって行くと、
「おいでやす」
文楽人形のちゃり頭《かしら》のような顔をして格子のうしろに坐っていた丁稚《でっち》が、君枝の顔を見るなり、
「電話のお方が来やはりましたぜエ」
奥へ向って、大声をだした。
瞬間奥の部屋でなにかさっと動揺があった――と、君枝は思った。
「秀どん、なに大きな声だしたはるねん。阿呆やな」
言いながら、いつもは奥の長火鉢の前で、頭痛膏をこめかみにはりつけた蒼い顔で、置物のようにぺたりと坐りこんでいる御寮人が、思いがけずいそいそと出て来て、
「――よう来てくれはりました。さあ、どうぞ。どうぞあがっとくれやす」
手をとらんばかりに愛想が良く、眉間の皺もなかった。
君枝は気味がわるかった。
「ほな、お邪魔します」
ちいさなモスの風呂敷包みをひらいて、消毒器のなかにはいった脱脂綿をとって、器用な手つきで電話機を消毒し、消毒液入れに消毒液を入れていると、いくつかの眼がじろじろと背中に、顔に、動作に来たようだった。
「あんたもお若いのに、たいてやおまへんな」
御寮人は傍をはなれずに、しきりに話しかけた。
「はあ、いいえ」
曖昧に返辞していると、
「このお仕事の前は、なにしたはりましたんでっか。――ずっとお家に……?」
「近所の風呂屋で下足番してました」
ありていに答えた。
「下足番?……」
御寮人はちょっと唸ったようだが、
「――それで、御家族は?」
と、訊いた。
なぜ、こんなことを訊くのかと、不審というより腹が立ち、
「お祖父さんと二人です」
「まあ、そうでっか。そら寂しおまんな。ほいでお祖父さんはいま何したはるんです?」
「俥ひきしてます」
君枝はむっとした表情をかくすのに苦労が要った。
「そうでっか? それはそれは……。御両親は早くなくなられはったんでっか?」
「はあ」
「ずっと以前にね? そうでっか。それは
前へ
次へ
全98ページ中52ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング