輪転機が、附近二十余軒の住民を、不眠性神経衰弱に陥《おとしい》れながら、轟々《ごうごう》と廻転をし続けていた。
 油と紙と汗の臭いが、新大臣のお孫さんの笑顔だとか、花嫁の悲しげな眼差《まなざ》し、あるいはイブセン、蒋介石、心中、保険魔、寺尾文子、荒木又右衛門、モラトリアム、……等といっしょに、荒縄でくくられ、トラックに積みこまれて、この大都会を地方へつなぐいくつかの停車場へ向けて送りだされていた。だから彼が、まるで黒いゴム風船のように、飄然《ひょうぜん》とこの屋上庭園に上ってきたとて、誰も咎《とが》める人などありはしない。彼はシイカの事を考えていた。モーニングを着たらきっとあなたはよくお似合になるわよ、と言ったシイカの笑顔を。
 彼はそっとポケットから、クララ・ボウのプロマイドを取りだして眺めた。屋上に高く聳《そび》えた塔の廻りを、さっきから廻転している探海灯が、長い光りの尾の先で、都会の空を撫でながら一閃《いっせん》するたびに、クララ・ボウの顔がさっと明るく微笑《ほほえ》んだが、暗くなるとまた、むっつりと暗闇の中で物を想いだした。彼女にはそういうところがあった。シイカには。
 彼女はいつも、会えば陽気にはしゃいでいるのだったが、マズルカを口吟《くちずさ》みながら、橋の向うへ消えて行く彼女の後姿は、――会っていない時の、彼の想い出の中に活《い》きている彼女は、シイカは、墓場へ向う路のように淋しく憂鬱《ゆううつ》だった。
 カリフォルニヤの明るい空の下で、溌溂《はつらつ》と動いている少女の姿が、世界じゅうの無数のスクリンの上で、果物と太陽の香りを発散した。東洋人独特の淑《しと》やかさはあり、それに髪は断《き》ってはいなかったが、シイカの面影にはどこかそのクララに似たところがあった。とりわけ彼女が、忘れものよ、と言って、心持首を傾《かし》げながら、彼の唇を求める時。シイカはどうしても写真をくれないので、――彼女は、人間が過去というものの中に存在していたという、たしかな証拠を残しておくことを、なぜかひどく嫌やがった。彼女はそれほど、瞬間の今の自分以外の存在を考えることを恐れていた。――だから、しかたなく彼はそのアメリカの女優のプロマイドを買ってきて、鼻のところを薄墨で少し低く直したのであった。
 彼がシイカといつものように果物屋の店で話をしていた時、Sunkist という
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