的な傾向に於て、畢竟シヨオペンハウエルが彼の言葉遣ひに於ける仏教徒より他の何物でもなく、それに対してニイチエが、彼の言葉遣ひに於ける仏教徒より以外の何物でもなかつたといふのは、前よりも一層興味ある事柄であると言ふ可きであらう。
蓋し、シヨオペンハウエルに依れば、カントの所謂デイング・アン・ウント・ヒユウル・ジヒ、即ち実在若しくは本体は「生への意志」と称する一つの盲目意志であり、そして斯うした盲目意志の展開、又はその展開の所産としての、此の世界は最悪の世界であり、此の世界の中に営まれる此の生は最悪の生であらねばならぬ。
従つて、斯の如き最悪の世界から自らを救ひ出し、斯の如き最悪の生から解脱する為めの方法は、右の「生への意志」といふ一の盲目意志を滅却し、又は停止し去るより他にあり得ない。然かも斯うした「生への意志」を否定し去るのは一は芸術的享楽に依る意志否定であり、他は宗教的禁慾に依る意志否定である。
より詳しくは、芸術的享楽に依る意志否定といふのは、所謂天才的直感を通じての芸術的陶酔が、少くともその刹那に於て、私共をカント哲学なぞに言ふところの無関心な状態に置き、従つて私共の生への
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