ろの仏教は、かなり思ひ切つて小乗的なものであつたと言はれることを免れ得ないであらう。
 処で、仏陀を卓越した生理学者であると見、彼の教を、世にも比類なく、科学的に進歩した養生法に他ならないと見てゐるところの我がニイチエは、シヨオペンハウエルなぞと比較して見た場合、如何に仏陀が彼の中道又は八正道の根本態度を重要視してゐたかを、同日に談じ難きまでに、実により正しく、より深く理解してゐるやうに思はれる。
 即ち、かうした限りに於て、ニイチエはシヨオペンハウエルが小乗仏教を仏教として見てゐたゞけ、丁度それだけニイチエは大乗仏教を仏教として見ることが出来たのである。而も、所謂中道なり、八正道なりが、苦行乃至楽行に較べて、或はあまねく凡俗人等の日常生活に較べてより多く所謂養生法にかなつた生活(此処には狭義の生活及び思想を生活の一語に一括して言ふのだが)であり、従つて厳密により喜ばしき生活であり、又より真なる、より善なるものであると共に、より美なる生活は畢竟より芸術的な生活でもあり得るとしたならば仏陀の真実の教は、シヨオペンハウエルの場合なぞと異つて、所謂この生からの解脱を、結局よりよき生への精進と見てゐるものであり、而もその精進の方法が芸術的な生活、若しくは芸術に於ける努力そのものと全く一のものであると見てゐるものである。
 そしてかくの如く見て来れば、生への意志を否定しようとしたシヨオペンハウエルに対して、所謂権力への意志を押立てゝ、再び、而もより力強く生への意志を肯定しようとしたところのニイチエは、右の如き見地からする時それだけシヨオペンハウエルから遠ざかつて、丁度又それだけ大乗的仏教思想の方へ近付いて来てゐるものと言ふべきではなからうか。
 勿論、ニイチエはあのやうに強調して生の肯定を言つて居り、大乗仏教若しくは大乗的な目で見た仏陀の教は、少くともそれが仏教である限りに於て、兎も角も生を肯定するよりもむしろ、否定したと、然う言はざるを得ないであらう。
 併し乍ら、ニイチエもあんなに屡々没落を愛するものとして超人を説き、また奴隷道徳に対する支配者道徳としての、賤民道徳に対する貴族道徳としての、あの特殊な自制や、克己や、悲壮に生きることや、太陽の温熱を分つが如く施与することの美徳をさへ主張してゐる点からすれば少くともその限りに於て彼の所謂「大いなる生の肯定」へ、何等かの制限を加へてゐると、見られないこともないであらう。
 然もこれに対して仏教は、所謂生を否定するに際しても、唯素樸に単純に否定してゐるのではなく、先づ否定し次に否定したのを再び否定し、また次に再び否定したものを三度目に否定し、かくして無限の否定を重ねて行き乍ら否定するのである。されば、斯うした方法に於ける否定は或る意味に於て、一種の肯定であるとも言へなくはない。勿論、それは単純素樸な肯定にはなり得ないけれども否定を否定することに依つての肯定を、無限に持続して行くものだと見れば、茲に仏教特有の不可思議な、甚だ手の込んだ生の肯定が自らにして否定の深淵の底から、水沫の如く浮き上つて来るやうにも思へるではないか。
 そして斯の如く見て来れば、大乗仏教に於ける私の所謂、否定的肯定若しくは肯定的否定の態度は、その表現の外観如何に関係無く唯本質と本質との比較から見た場合、彼のニイチエ等の所謂「大いなる生の肯定」と、余りに違つたものでないのみならず、むしろ可なりに相近いものを有つてゐるやうにさへ思はれて来るではないか。
 改めて言ふ迄も無く、所謂大乗的な仏教も、釈尊入滅後数世紀乃至十数世紀の間に釈尊の郷土であるところの印度に於て、次々に現はれてゐる。そして、其れ等のものはこれが印度に出現したと略同じ順序に於て余り間を置かずして、また次々に支那へは入つて来てゐる。
 併し乍ら、印度及び支那に於ける此等の大乗仏教は忌憚なく言へば、単に宗教学的な秀抜な天分を有つた学者等の経、論、釈等として単なる理論学説として、謂はゞ単なる哲学としてのみ存在してゐたに過ぎない観がある。
 そしてそれ等の単なる哲学が再び哲学以上のものとなり、所謂思想に於ても生活に於ても、仏陀の真精神を我々に頒ち与へるものとして現はれ来つたのは、これが我が日本へ渡来してから後のこと、より詳しくは大凡そ鎌倉期に入つて、道元、明恵、法然、親鸞、日蓮の如き他の民族の歴史にあつては、千年二千年の間に唯一人の出現を期待することすら容易でない程の、夫々に全く釈尊其人の御再来かとも思はれる程の、あの崇高偉大な宗教的人格が相次いで降臨されるに至つてから後のことでなければならぬ。
 ところで、斯の如く大乗的仏教が我が日本へ渡つて来てからそれは単に哲学から宗教にまで自らを広くし、且高くした丈けではない。かの思想の単なる哲学から宗教になつたことの変化は同
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