意志を一時的にもせよ、否定の状態に置いて呉れることを意味するのである。
勿論、斯うした芸術に依る意志否定が単に一時的なものに過ぎないのに対して本当に恒久的に生への意志を否定し去つて呉れるものは、宗教的禁慾に依るところの方法であり、それより他に如何なる方法もあり得ない。
扨て其の本当の意志否定が如何にして為されるかといふに、先づ諸行無常とも言ふ可き厭世観の徹底が、快楽追及の無益なることを感得せしめ、諸法無我にも比す可き、汎神論的世界観の徹底が、我と云ひ彼といふ如き個体的生存の、単なる幻覚的迷妄に過ぎないことを、証悟さして呉れる。
次には、右の如き感得と証悟とは、必然に個体的生命の否定を意味する素食と、種族保存の否定を意味する貞潔と、利己心の否定を意味する清貧と、此の三種の戒律的実践へ導いて呉れる。
そして最後に、斯うした戒律的実践、即ち禁慾の絶間なき反復持続が、遂に生への意志と称する一の盲目意志を、完全に否定し得るといふのである。
処で、かのシヨオペンハウエルの唯一の、完全な解脱方法としての戒律的実践は、彼自ら禁慾といふ言葉を以て呼んではゐるが、私共を以て見れば、それは寧ろ苦行的と言はれるのが、より適はしくはないかと思はれる程のものである。
少くともそれは、私共の解する限りに於ての、釈尊自身の中道、又は八正道と呼ばれたところのもの等に較べて、かなり苦行的な色調を帯びたものと見らるべきであらう。
委しく言へば、釈尊が思想の上に有無の二見に着することを戒め、生活の上に苦楽の二辺から離れることを勧められたのに対して、シヨオペンハウエルはその観念的態度に於て中正を失つて「無」に、否定に偏してゐる如く、戒行的態度に於て「苦」に、苦行に走ることを免れてゐないのである。即ち、要するに釈尊自身の所謂中道的態度の如きに比して、かなり趣を異にしたものなのである。
抑《そも》々、外的関係に於て仏陀とより近き関係に立ちながら、単に仏陀の教の形骸をのみ捕へて、その内部的な、実質的な生命を洞察し理解し得ないものが所謂小乗の徒であるならば、反対に外的関係に於てこそ仏陀からより遠い所に立つてゐやうとも、彼の教の形骸ならぬ生命を、真実の精神を洞察し得てゐるところのものは、所謂大乗の徒と言はるべきであらう。
そしてこの意味からすれば、シヨオペンハウエルが、その哲学の土台として取つたとこ
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