徳基が、昔の研究はまず地理から始めなければならぬ、といって『紫《むらさき》の一本《ひともと》』『江戸咄《えどばなし》』『江戸雀《えどすずめ》』『江戸真砂《えどまさご》六十帖』などいう書物や、古絵図類を集めていたのもこの頃であった。
 西鶴の本は沢山集った。それらを私は幸田、中西、尾崎の諸君に手柄顔《てがらがお》をして見せたものであった。
 そうして西鶴を研究し出した諸君によって、西鶴調なるものが復活したのである。これは、山田美妙斎などによって提唱された言文一致体《げんぶんいっちたい》の文章に対する反抗となったものであって、特に露伴君の文章なぞは、大いに世を動かしたものであった。
 内田魯庵君の著『きのふけふ』(博文館発行)の中に、この頃の私のことは書いてあるから、私の口から申すのはこれくらいで差控えて置きたいと思う。
 私も愛鶴軒《あいかくけん》と言って『読売新聞』に投書していたが、あまり続けて書かなかった。(私は世の中がめんどうになって、愛鶴軒という雅号なども捨ててしまった。そして幸田君にわけを話すと、幸田君は――愛鶴軒は歿《ぼっ》したり――と新聞に書いてくれた。)その後、中西君も『
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