線のない時分であるから、初春の江戸の空は狭きまでに各種《いろいろ》の凧で飾られたものである。その時分は町中でも諸所に広場があったので、そこへ持ち出して揚げる。揚りきるとそのまま家々の屋根などを巧みに避けて、自分の家へ持ち帰り、家の内に坐りながら、大空高く揚った凧を持って楽しんでいたものである。大きいのになると、十四、五枚のものもあったが、それらは大人が揚げたものであった。
 私のいた日本橋|馬喰町《ばくろちょう》の近くには、秩父屋という名高い凧屋があって、浅草の観音の市の日から、店先きに種々の綺麗《きれい》な大きな凧を飾って売り出したものであった。昔は凧の絵の赤い色は皆な蘇枋《すおう》というもので描いたので、これはやはり日本橋の伊勢佐という生薬《しょうやく》屋で専売していたのだが、これを火で温めながら、凧へ塗ったものである。その秩父屋でも何時《いつ》も店で、火の上へ蘇枋を入れた皿を掛けて、温めながら凧を立て掛けて置いて、いろいろな絵を描いていたが、誠にいい気分のものであった。またこの秩父屋の奴凧《やっこだこ》は、名優|坂東三津五郎《ばんどうみつごろう》の似顔で有名なものだった。この秩父屋にいた職人が、五年ばかり前まで、上野のいとう松坂の横で凧屋をしていたが、この人の家の奴凧も、主家のを写したのであるから、やはり三津五郎の顔であった。
 それからもう一つ、私の近所で名高かったものは、両国の釣金《つりきん》の「堀龍」という凧であった。これは両国の袂《たもと》の釣竿《つりざお》屋の金という人が拵《こし》らえて売る凧で、龍という字が二重になっているのだが、これは喧嘩凧《けんかだこ》として有名なもので、随《したが》って尾などは絶対につけずに揚げるいわゆる坊主凧《ぼうずだこ》であった。
 今日でも稀《まれ》には見掛けるが、昔の凧屋の看板というものが面白かった。籠《かご》で蛸《たこ》の形を拵らえて、目玉に金紙が張ってあって、それが風でくるりくるりと引っくり返るようになっていた。足は例の通り八本プラリブラリとぶら下っていて、頭には家に依《よ》って豆絞《まめしぼ》りの手拭《てぬぐい》で鉢巻をさせてあるのもあり、剣烏帽子《けんえぼし》を被《かぶ》っているものもあったりした。
 この凧遊びも二月の初午《はつうま》になると、その後は余り揚げる子供もなくなって、三月に這入ると、もう「三月の下り凧」と俗に唱えて、この時分に凧を揚げると笑われたものであった。
 さておしまいに、手元に書きとめてある凧の句を二ツ三ツ挙げて見よう。
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えた村の空も一つぞ凧《いかのぼり》 去来
葛飾や江戸を離れぬ凧 其角
美しき凧あがりけり乞食小屋 一茶
物の名の鮹や古郷のいかのぼり 宗因
糸つける人と遊ぶや凧 嵐雪
今の列子糸わく重し人形凧 尺草
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[#地から1字上げ](大正七年一月『趣味之友』第二十五号)



底本:「梵雲庵雑話」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年8月18日第1刷発行
※「ぶか」のあとに編集部の注記がありますが、除きました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:小林繁雄
校正:門田裕志
2003年2月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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