ほんじょ》か浅草か今知る由もなし。今は王子|権現《ごんげん》の辺、西新井の大師《だいし》、川崎大師、雑司《ぞうし》ケ谷《や》等にもあり、亀戸天満宮《かめいどてんまんぐう》門前に二軒ほど製作せし家ありしが、震災後これもありやなしや不知《しらず》。予《よ》少年の頃は東両国、回向院《えこういん》前にてもこのつるし多く売りをりしが、その頃のものと形はさのみ変りなけれど、彩色は段々悪くなり、面白味うせたり。前いへる場所などに鬻ぐは江戸市中に遠ざかりし所ゆゑ残れる也《なり》。
亀戸天神様宮前の町にて今も鬻ぐ。
今戸《いまど》の土人形
御承知の通り、今戸は瓦、ほうろく、かはらけ、火消壺《ひけしつぼ》等種々土を以《も》つて造る所ゆゑ自然子供への玩具も作り、浅草地内、或は東両国、回向院前等に卸売見世《おろしうりみせ》も数軒ありて、ほんの素焼《すやき》に上薬《うわぐすり》をかけ、土鍋《どなべ》、しちりん、小さき食茶碗、小皿等を作り、人形は彩色あれど多くは他の玩具《おもちゃ》屋の手にて彩色し、その土地にては素焼のまゝ数を多く焼き出さんがためにてある由。俵の船積が狂詠に「色とりどり姿に人は迷ふらん同じ瓦の今戸人形」(明和年間)とも見ゆ。予記憶せる事あり、回向院門前にて鬻げる家にては皆声をかけ「しごくお持ちよいので御座い」とこの言葉を繰返へしいひ居《お》りしが、予、日々遊びに行けるよりなじみとなり、大《おおい》なる布袋《ほてい》の人形をほしいといへるに、連れし小者《こもの》の買はんとせしに、これは山城《やましろ》伏見《ふしみ》にて作りし物にて、当店の看板なればと、迷惑顔《めいわくがお》せし事ありしが、京より下り来し品も、江戸に多くありけるものと見えたり。或る人予に、かゝる事を聞かせし事あり。浅草田圃の鷲《おおとり》神社は野見《のみ》の宿禰《すくね》を祀《まつ》れるより、埴《はに》作る者の同所の市の日に、今戸より土人形を売りに出してより、人形造り初めしとなん。余事なれど酉《とり》の市とは、生たる鶏を売買せし也。農人の市なれば也。それ故《ゆえ》に細杷《こまざらえ》も多く売りしが、はては細杷のみにては品物|淋《さび》しきより、縁起物といふお福、宝づくしの類を張り抜きに作り、それに添へてかき込め/\などいふて売りけるよし、今は熊手《くまで》の実用はどこへやら、あらぬ飾物となりけるもをかし。
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