我が宗教観
淡島寒月
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)椿岳《ちんがく》は
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)坐禅|三昧《ざんまい》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから3字下げ]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なアもうだ/\
−−
御存じの通り私の父の椿岳《ちんがく》は何んでも好きで、少しずつかじって見る人でありました。で、芸術以外に宗教にも趣味を持って、殊にその内でも空也《くうや》は若い頃本山から吉阿弥の号を貰《もら》って、瓢《ひさご》を叩いては「なアもうだ/\」を唱えていた位に帰依《きえ》していたのでありました。それから後には神官を望んで、白服を着て烏帽子《えぼし》を被った時もありましたが、後にはまた禅は茶味禅味《ちゃみぜんみ》だといって、禅に凝《こ》った事もありました。或る時芝の青松寺へ行って、和尚《おしょう》に対面して話の末、禅の大意を聞いたら、火箸《ひばし》をとって火鉢の灰を叩いて、パッと灰を立たせ、和尚は傍《かたわら》の僧と相顧みて微笑《ほほえ》んだが、終《つい》に父にはその意が分らずにしまったというような話もあります。その頃高崎の大河内子と共に、東海道の旅をした事があって、途中荒れに逢って浜名で橋が半ば流れてしまった。その毀《こわ》れた橋の上で坐禅を組んだので、大河内子が止めたそうでした。それから南禅寺に行った時にも、山門の上で子《し》にすすめられて坐禅をしたという話でした。ところがこれほど凝った禅も、浅草の淡島堂にいた時分には、天台宗になって、僧籍に身を置くようになりました。しかしてその時「本然」という名を貰ったのでした。父はその名を嫌って余り名乗らなかったのでしたが、印形《いんぎょう》がありました。これは明治十年頃の事でした。その後今の向島《むこうじま》の梵雲庵《ぼんうんあん》へ移って「隻手高声」という額を掲げて、また坐禅|三昧《ざんまい》に日を送っていたのでした。けれども真実の禅ではなく、野狐禅《やこぜん》でもありましたろうか。しかし父の雅《みやび》の上には総《すべ》て禅味が加わっていた事は確かでした。
私も父の子故、知らず識《し》らず禅や達磨を見聞していましたが、自分はハイカラの方だったので基督《
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
淡島 寒月 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング