し》の春の半《なか》ごろと記憶しているが、少し体躯《からだ》の具合が悪いのでしばらく保養する気で東京の学校を退《ひ》いて国へ帰る、その帰途《かえりみち》のことであった。大阪から例の瀬戸内通《せとうちがよ》いの汽船に乗って春海《しゅんかい》波平らかな内海《うちうみ》を航するのであるが、ほとんど一昔も前の事であるから、僕もその時の乗合の客がどんな人であったやら、船長がどんな男であったやら、茶菓《ちゃか》を運ぶボーイの顔がどんなであったやら、そんなことは少しも憶《おぼ》えていない。多分僕に茶を注《つ》いでくれた客もあったろうし、甲板の上でいろいろと話しかけた人もあったろうが、何にも記憶に止まっていない。
『ただその時は健康が思わしくないからあまり浮き浮きしないで物思いに沈んでいたに違いない。絶えず甲板の上に出《い》で将来《ゆくすえ》の夢を描いてはこの世における人の身の上のことなどを思いつづけていたことだけは記憶している。もちろん若いものの癖でそれも不思議はないが。そこで僕は、春の日ののどかな光が油のような海面に融《と》けほとんど漣《さざなみ》も立たぬ中を船の船首《へさき》が心地よい音をさせて水を切って進行するにつれて、霞《かすみ》たなびく島々を迎えては送り、右舷《うげん》左舷《さげん》の景色《けしき》をながめていた。菜の花と麦の青葉とで錦《にしき》を敷いたような島々がまるで霞の奥に浮いているように見える。そのうち船がある小さな島を右舷に見てその磯《いそ》から十町とは離れないところを通るので僕は欄に寄り何心《なにげ》なくその島をながめていた。山の根がたのかしこここに背の低い松が小杜《こもり》を作っているばかりで、見たところ畑《はた》もなく家らしいものも見えない。しんとしてさびしい磯の退潮《ひきしお》の痕《あと》が日に輝《ひか》って、小さな波が水際《みぎわ》をもてあそんでいるらしく長い線《すじ》が白刃《しらは》のように光っては消えている。無人島《むにんとう》でない事はその山よりも高い空で雲雀《ひばり》が啼《な》いているのが微《かす》かに聞こえるのでわかる。田畑ある島と知れけりあげ雲雀、これは僕の老父《おやじ》の句であるが、山のむこうには人家があるに相違ないと僕は思うた。と見るうち退潮《ひきしお》の痕《あと》の日に輝《ひか》っているところに一人の人がいるのが目についた。たしかに男である、また小供《こども》でもない。何かしきりに拾っては籠《かご》か桶《おけ》かに入れているらしい。二三歩《ふたあしみあし》あるいてはしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]、そして何か拾っている。自分はこのさびしい島かげの小さな磯を漁《あさ》っているこの人をじっとながめていた。船が進むにつれて人影が黒い点のようになってしまった、そのうち磯も山も島全体が霞《かすみ》のかなたに消えてしまった。その後|今日《きょう》が日までほとんど十年の間、僕は何度この島かげの顔も知らないこの人を憶《おも》い起こしたろう。これが僕の「忘れ得ぬ人々」の一人である。
『その次は今から五年ばかり以前、正月|元旦《がんたん》を父母の膝下《ひざもと》で祝ってすぐ九州旅行に出かけて、熊本《くまもと》から大分《おおいた》へと九州を横断した時のことであった。
『僕は朝早く弟と共に草鞋《わらじ》脚絆《きゃはん》で元気よく熊本を出発《た》った。その日はまだ日が高いうちに立野《たての》という宿場まで歩いてそこに一泊した。次の日のまだ登らないうち立野を立って、かねての願いで、阿蘇山《あそさん》の白煙《はくえん》を目がけて霜を踏み桟橋を渡り、路を間違えたりしてようやく日中《おひる》時分に絶頂近くまで登り、噴火口に達したのは一時過ぎでもあッただろうか。熊本地方は温暖であるがうえに、風のないよく晴れた日だから、冬ながら六千尺の高山もさまでは寒く感じない。高嶽《たかたけ》の絶頂《いただき》は噴火口から吐き出す水蒸気が凝って白くなっていたがそのほかは満山ほとんど雪を見ないで、ただ枯れ草白く風にそよぎ、焼け土のあるいは赤きあるいは黒きが旧噴火口の名残《なごり》をかしこここに止めて断崖《だんがい》をなし、その荒涼たる、光景は、筆も口もかなわない、これを描くのはまず君の領分だと思う。
『僕らは一度噴火口の縁《ふち》まで登って、しばらくはすさまじい穴をのぞき込んだり四方の大観をほしいままにしたりしていたが、さすがに頂《いただき》は風が寒くってたまらないので、穴から少し下《お》りると阿蘇神社があるそのそばに小さな小屋があって番茶くらいはのませてくれる、そこへ逃げ込んで団飯《むすび》をかじって元気をつけて、また噴火口まで登った。
『その時は日がもうよほど傾いて肥後の平野《へいや》を立てこめている霧靄《もや》が焦げて赤くなってちょうどそこに見える旧噴火口の断崖と同じような色に染まった。円錐形《えんすいけい》にそびえて高く群峰を抜く九重嶺の裾野《すその》の高原数里の枯れ草が一面に夕陽《せきよう》を帯び、空気が水のように澄んでいるので人馬の行くのも見えそうである。天地|寥廓《りょうかく》、しかも足もとではすさまじい響きをして白煙|濛々《もうもう》と立ちのぼりまっすぐに空を衝《つ》き急に折れて高嶽《たかたけ》を掠《かす》め天の一方に消えてしまう。壮といわんか美といわんか惨《さん》といわんか、僕らは黙ったまま一|言《ごん》も出さないでしばらく石像のように立っていた。この時天地|悠々《ゆうゆう》の感、人間存在の不思議の念などが心の底からわいて来るのは自然のことだろうと思う。
『ところでもっとも僕らの感を惹《ひ》いたものは九重嶺と阿蘇山との間の一大窪地《いちだいくぼち》であった。これはかねて世界最大の噴火口の旧跡と聞いていたがなるほど、九重嶺の高原が急に頽《おち》こんでいて数里にわたる絶壁がこの窪地の西を回《めぐ》っているのが眼下によく見える。男体山麓《なんたいさんろく》の噴火口は明媚幽邃《めいびゆうすい》の中禅寺湖と変わっているがこの大噴火口はいつしか五穀実る数千町歩の田園とかわって村落幾個の樹林や麦畑が今しも斜陽静かに輝いている。僕らがその夜、疲れた足を踏みのばして罪のない夢を結ぶを楽しんでいる宮地《みやじ》という宿駅もこの窪地にあるのである。
『いっそのこと山上の小屋に一泊して噴火の夜の光景を見ようかという説も二人の間に出たが、先が急がれるのでいよいよ山を下ることに決めて宮地を指《さ》して下《お》りた。下《くだ》りは登りよりかずっと勾配《こうばい》が緩《ゆる》やかで、山の尾や谷間の枯れ草の間を蛇《へび》のようにうねっている路をたどって急ぐと、村に近づくにつれて枯れ草を着けた馬をいくつか逐《お》いこした。あたりを見るとかしこここの山の尾の小路《こみち》をのどかな鈴の音夕陽を帯びて人馬いくつとなく麓《ふもと》をさして帰りゆくのが数えられる、馬はどれもみな枯れ草を着けている。麓はじきそこに見えていても容易には村へ出ないので、日は暮れかかるし僕らは大急ぎに急いでしまいには走って下りた。
『村に出た時はもう日が暮れて夕闇《ゆうやみ》ほのぐらいころであった。村の夕暮れのにぎわい[#「にぎわい」に傍点]は格別で、壮年|男女《なんにょ》は一日の仕事のしまい[#「しまい」に傍点]に忙しく子供は薄暗い垣根《かきね》の陰や竈《かまど》の火の見える軒先に集まって笑ったり歌ったり泣いたりしている、これはどこの田舎《いなか》も同じことであるが、僕は荒涼たる阿蘇の草原から駆け下りて突然、この人寰《じんかん》に投じた時ほど、これらの光景に搏《う》たれたことはない。二人は疲れた足をひきずって、日暮れて路《みち》遠きを感じながらも、懐《なつ》かしいような心持ちで宮地を今宵《こよい》の当てに歩いた。
『一|村《むら》離れて林や畑《はた》の間をしばらく行くと日はとっぷり暮れて二人の影がはっきりと地上に印するようになった。振り向いて西の空を仰ぐと阿蘇の分派の一峰の右に新月がこの窪地一帯の村落を我物顔《わがものがお》に澄んで蒼味《あおみ》がかった水のような光を放っている。二人は気がついてすぐ頭の上を仰ぐと、昼間は真っ白に立ちのぼる噴煙が月の光を受けて灰色に染まって碧瑠璃《へきるり》の大空を衝《つ》いているさまが、いかにもすさまじくまた美しかった。長さよりも幅の方が長い橋にさしかかったから、幸いとその欄に倚《よ》っかかって疲れきった足を休めながら二人は噴煙のさまのさまざまに変化するをながめたり、聞くともなしに村落の人語の遠くに聞こゆるを聞いたりしていた。すると二人が今来た道の方から空車《からぐるま》らしい荷車の音が林などに反響して虚空《こくう》に響き渡って次第に近づいて来るのが手に取るように聞こえだした。
『しばらくすると朗々《ほがらか》な澄《す》んだ声で流して歩く馬子唄《まごうた》が空車の音につれて漸々《ぜんぜん》と近づいて来た。僕は噴煙をながめたままで耳を傾けて、この声の近づくのを待つともなしに待っていた。
『人影が見えたと思うと「宮地ゃよいところじゃ阿蘇山ふもと」という俗謡《うた》を長く引いてちょうど僕らが立っている橋の少し手前まで流して来たその俗謡《うた》の意《こころ》と悲壮な声とがどんなに僕の情《こころ》を動かしたろう。二十四、五かと思われる屈強な壮漢《わかもの》が手綱《たづな》を牽《ひ》いて僕らの方を見向きもしないで通ってゆくのを僕はじっとみつめていた。夕月の光を背にしていたからその横顔もはっきりとは知れなかったがそのたくましげな体躯《からだ》の黒い輪郭が今も僕の目の底に残っている。
『僕は壮漢《わかもの》の後ろ影をじっと見送って、そして阿蘇の噴煙を見あげた。「忘れ得ぬ人々」の一人はすなわちこの壮漢《わかもの》である。
『その次は四国の三津が浜に一泊して汽船|便《びん》を待った時のことであった。夏の初めと記憶しているが僕は朝早く旅宿《やど》を出て汽船の来るのは午後と聞いたのでこの港の浜や町を散歩した。奥に松山を控えているだけこの港の繁盛《はんじょう》は格別で、分けても朝は魚市《うおいち》が立つので魚市場の近傍の雑踏は非常なものであった。大空は名残《なごり》なく晴れて朝日|麗《うらら》かに輝き、光る物には反射を与え、色あるものには光を添えて雑踏の光景をさらに殷々《にぎにぎ》しくしていた。叫ぶもの呼ぶもの、笑声|嬉々《きき》としてここに起これば、歓呼|怒罵《どば》乱れてかしこにわくというありさまで、売るもの買うもの、老若男女《ろうにゃくなんにょ》、いずれも忙しそうにおもしろそうにうれしそうに、駆けたり追ったりしている。露店《ろてん》が並んで立ち食いの客を待っている。売っている品《もの》は言わずもがなで、食ってる人は大概|船頭《せんどう》船方《ふなかた》の類《たぐい》にきまっている。鯛《たい》や比良目《ひらめ》や海鰻《あなご》や章魚《たこ》が、そこらに投げ出してある。なまぐさい臭《にお》いが人々の立ち騒ぐ袖《そで》や裾《すそ》にあおられて鼻を打つ。
『僕は全くの旅客《りょかく》でこの土地には縁もゆかりもない身だから、知る顔もなければ見覚えの禿《は》げ頭もない。そこで何となくこれらの光景が異様な感を起こさせて、世のさまを一段|鮮《あざ》やかにながめるような心地がした。僕はほとんど自己《おのれ》をわすれてこの雑踏の中《うち》をぶらぶらと歩き、やや物静かなる街《ちまた》の一端《はし》に出た。
『するとすぐ僕の耳に入ったのは琵琶《びわ》の音《ね》であった。そこの店先に一人の琵琶僧が立っていた。歳《とし》のころ四十を五ツ六ツも越えたらしく、幅の広い四角な顔の丈《たけ》の低い肥えた漢子《おとこ》であった。その顔の色、その目の光はちょうど悲しげな琵琶の音にふさわしく、あの咽《むせ》ぶような糸の音につれて謡《うた》う声が沈んで濁って淀《よど》んでいた。巷《ちまた》の人は一人もこの僧を顧みない、家々の者はたれもこの琵琶に耳を傾けるふうも見せない。朝日は輝く浮世はせわしい。
『しかし僕
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