忘れえぬ人々
国木田独歩
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)多摩川《たまがわ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二口三口|襖越《ふすまご》しの
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あいそ[#「あいそ」に傍点]
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多摩川《たまがわ》の二子《ふたこ》の渡しをわたって少しばかり行くと溝口《みぞのくち》という宿場がある。その中ほどに亀屋《かめや》という旅人宿《はたごや》がある。ちょうど三月の初めのころであった、この日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだにさびしいこの町が一段と物さびしい陰鬱《いんうつ》な寒そうな光景を呈していた。昨日《きのう》降った雪がまだ残っていて高低定まらぬ茅屋根《わらやね》の南の軒先からは雨滴《あまだれ》が風に吹かれて舞うて落ちている。草鞋《わらじ》の足痕《あしあと》にたまった泥水にすら寒そうな漣《さざなみ》が立っている。日が暮れると間もなく大概の店は戸を閉《し》めてしまった。闇《くら》い一筋町《ひとすじまち》がひっそりとしてしまった。旅人宿《はたごや》だけに亀屋の店の障子《しょうじ》には燈火《あかり》が明《あか》く射《さ》していたが、今宵《こよい》は客もあまりないと見えて内もひっそりとして、おりおり雁頸《がんくび》の太そうな煙管《きせる》で火鉢《ひばち》の縁《ふち》をたたく音がするばかりである。
突然《だしぬけ》に障子をあけて一人《ひとり》の男がのっそり入《はい》ッて来た。長火鉢に寄っかかッて胸算用《むなさんよう》に余念もなかった主人《あるじ》が驚いてこちらを向く暇もなく、広い土間《どま》を三歩《みあし》ばかりに大股《おおまた》に歩いて、主人《あるじ》の鼻先に突ったッた男は年ごろ三十にはまだ二ツ三ツ足らざるべく、洋服、脚絆《きゃはん》、草鞋《わらじ》の旅装《なり》で鳥打ち帽をかぶり、右の手に蝙蝠傘《こうもり》を携え、左に小さな革包《かばん》を持ってそれをわきに抱いていた。
『一晩厄介になりたい。』
主人《あるじ》は客の風采《みなり》を視《み》ていてまだ何とも言わない、その時奥で手の鳴る音がした。
『六番でお手が鳴るよ。』
ほえるような声で主人《あるじ》は叫んだ。
『どちらさまでございます。』
主人《あるじ》は火鉢に寄っかかったままで問うた。客は肩をそびやかしてちょっと顔をしがめたが、たちまち口の辺《ほとり》に微笑《ほほえみ》をもらして、
『僕か、僕は東京。』
『それでどちらへお越しでございますナ。』
『八王子へ行くのだ。』
と答えて客はそこに腰を掛け脚絆《きゃはん》の緒《ひも》を解きにかかった。
『旦那《だんな》、東京から八王子なら道が変でございますねエ。』
主人《あるじ》は不審そうに客のようすを今さらのようにながめて、何か言いたげな口つきをした。客はすぐ気が付いた。
『いや僕は東京だが、今日《きょう》東京から来たのじゃアない、今日は晩《おそ》くなって川崎を出発《たっ》て来たからこんなに暮れてしまったのさ、ちょっと湯をおくれ。』
『早くお湯を持って来ないか。ヘエ随分今日はお寒かったでしょう、八王子の方はまだまだ寒うございます。』
という主人《あるじ》の言葉はあいそ[#「あいそ」に傍点]があっても一体の風《ふう》つきはきわめて無愛嬌《ぶあいきょう》である。年は六十ばかり、肥満《ふと》った体躯《からだ》の上に綿の多い半纒《はんてん》を着ているので肩からじきに太い頭が出て、幅の広い福々《ふくぶく》しい顔の目《まな》じりが下がっている。それでどこかに気むずかしいところが見えている。しかし正直なお爺《やじ》さんだなと客はすぐ思った。
客が足を洗ッてしまッて、まだふききらぬうち、主人《あるじ》は、
『七番へご案内申しな!』
と怒鳴ッた。それぎりで客へは何の挨拶《あいさつ》もしない、その後ろ姿を見送りもしなかった。真っ黒な猫《ねこ》が厨房《くりや》の方から来て、そッと主人《あるじ》の高い膝《ひざ》の上にはい上がって丸くなった。主人《あるじ》はこれを知っているのかいないのか、じっと目をふさいでいる。しばらくすると、右の手が煙草箱《たばこいれ》の方へ動いてその太い指が煙草を丸めだした。
『六番さんのお浴湯《ゆ》がすんだら七番のお客さんをご案内申しな!』
膝の猫がびっくりして飛び下《お》りた。
『ばか! 貴様《きさま》に言ったのじゃないわ。』
猫はあわてて厨房《くりや》の方へ駆けていってしまった。柱時計がゆるやかに八時を打った。
『お婆《ばあ》さん、吉蔵が眠そうにしているじゃあないか、早く被中炉《あんか》を入れてやってお寝かしな、かわいそうに。』
主人《あるじ》の声の方が眠そうである、厨房《くりや》の方で、
『吉蔵はここで本
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