引《たなび》くかと思うと、フトまたあちこち瞬《またた》く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧《さか》し気《げ》にみえる人の眼のごとくに朗らかに晴れた蒼空《あおぞら》がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上でかすかに戦《そよ》いだが、その音を聞いたばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌《しゃべ》りでもなかったが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語《ささやき》の声であった。そよ吹く風は忍ぶように木末《こずえ》を伝ッた、照ると曇るとで雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変わッた、あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈《くま》なくあかみわたッて、さのみ繁《しげ》くもない樺《かば》のほそぼそとした幹《みき》は思いがけずも白絹めく、やさしい光沢《こうたく》を帯《お》び、地上に散り布《し》いた、細かな落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色を放ち、頭をかきむしッたような『パアポロトニク』(蕨《わらび》の類《たぐ》い)のみごとな茎《くき》、しかも熟《つ》えすぎた葡萄《ぶどう》めく色を帯びたのが、際限もなくもつれからみつして目前に透かして見られた。
あるいはまたあたり一面にわかに薄暗くなりだして、瞬《またた》く間に物のあいろも見えなくなり、樺の木立ちも、降り積ッたままでまた日の眼に逢わぬ雪のように、白くおぼろに霞む――と小雨が忍びやかに、怪し気に、私語するようにバラバラと降ッて通ッた。樺の木の葉はいちじるしく光沢が褪《さ》めてもさすがになお青かッた、がただそちこちに立つ稚木のみはすべて赤くも黄いろくも色づいて、おりおり日の光りが今ま雨に濡《ぬ》れたばかりの細枝の繁みを漏《も》れて滑りながらに脱《ぬ》けてくるのをあびては、キラキラときらめいた」
[#ここで字下げ終わり]
すなわちこれはツルゲーネフ[#「ツルゲーネフ」に傍線]の書きたるものを二葉亭が訳して「あいびき」と題した短編の冒頭《ぼうとう》にある一節であって、自分がかかる落葉林の趣きを解するに至ったのはこの微妙な叙景の筆の力が多い。これはロシアの景でしかも林は樺の木で、武蔵野の林は楢の木、植物帯からいうとはなはだ異なっているが落葉林の趣は同じことである。自分はしばしば思うた、もし武蔵野の林が楢の類《たぐ》いでなく、松か何かであったらきわめて平凡な変化に乏しい色彩いちようなものとなってさまで珍重《ちんちょう》するに足らないだろうと。
楢の類いだから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨《しぐれ》が私語《ささや》く。凩《こがらし》が叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲えば、幾千万の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群かのごとく遠く飛び去る。木の葉落ちつくせば、数十里の方域にわたる林が一時に裸体《はだか》になって、蒼《あお》ずんだ冬の空が高くこの上に垂れ、武蔵野一面が一種の沈静に入る。空気がいちだん澄みわたる。遠い物音が鮮かに聞こえる。自分は十月二十六日の記に、林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視《ていし》し、黙想すと書いた。「あいびき」にも、自分は座して、四顧して、そして耳を傾けたとある。この耳を傾けて聞くということがどんなに秋の末から冬へかけての、今の武蔵野の心に適《かな》っているだろう。秋ならば林のうちより起こる音、冬ならば林のかなた遠く響く音。
鳥の羽音、囀《さえず》る声。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。叢《くさむら》の蔭、林の奥にすだく虫の音。空車《からぐるま》荷車の林を廻《めぐ》り、坂を下り、野路《のじ》を横ぎる響。蹄《ひづめ》で落葉を蹶散《けち》らす音、これは騎兵演習の斥候《せっこう》か、さなくば夫婦連れで遠乗りに出かけた外国人である。何事をか声高《こわだか》に話しながらゆく村の者のだみ声、それもいつしか、遠ざかりゆく。独り淋しそうに道をいそぐ女の足音。遠く響く砲声。隣の林でだしぬけに起こる銃音《つつおと》。自分が一度犬をつれ、近処の林を訪《おとな》い、切株に腰をかけて書《ほん》を読んでいると、突然林の奥で物の落ちたような音がした。足もとに臥《ね》ていた犬が耳を立ててきっとそのほうを見つめた。それぎりであった。たぶん栗が落ちたのであろう、武蔵野には栗樹《くりのき》もずいぶん多いから。
もしそれ時雨《しぐれ》の音に至ってはこれほど幽寂《ゆうじゃく》のものはない。山家の時雨は我国でも和歌の題にまでなっているが、広い、広い、野末から野末へと林を越え、杜《もり》を越え、田を横ぎり、また林を越えて、しのびやかに通り過《ゆ》く時雨の音のいかにも幽《しず》かで、
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