非凡なる凡人
国木田独歩
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)噂《うわさ》しあった
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一人|殖《ふ》えれば
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(例)ワット[#「ワット」に傍線]
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上
五六人の年若い者が集まって互いに友の上を噂《うわさ》しあったことがある、その時、一人が――
僕の小供《こども》の時からの友に桂正作《かつらしょうさく》という男がある、今年二十四で今は横浜のある会社に技手として雇われもっぱら電気事業に従事しているが、まずこの男ほど類の異《ちが》った人物はあるまいかと思われる。
非凡人《ひぼんじん》ではない。けれども凡人でもない。さりとて偏物《へんぶつ》でもなく、奇人でもない。非凡なる凡人というが最も適評かと僕は思っている。
僕は知れば知るほどこの男に感心せざるを得ないのである。感心するといったところで、秀吉《ひでよし》とか、ナポレオンとかそのほかの天才に感心するのとは異うので、この種の人物は千百歳に一人も出るか出ないかであるが、桂正作のごときは平凡なる社会がつねに産出しうる人物である、また平凡なる社会がつねに要求する人物である。であるから桂のような人物が一人|殖《ふ》えればそれだけ社会が幸福なのである。僕の桂に感心するのはこの意味においてである。また僕が桂をば非凡なる凡人と評するのもこのゆえである。
僕らがまだ小学校に通っている時分であった。ある日、その日は日曜で僕は四五人の学校仲間と小松山《こまつやま》へ出かけ、戦争の真似《まね》をして、我こそ秀吉だとか義経だとか、十三四にもなりながらばかげた腕白《わんぱく》を働らいて大あばれに荒《あば》れ、ついに喉《のど》が渇《かわ》いてきたので、山のすぐ麓《ふもと》にある桂正作の家の庭へ、裏山からドヤドヤと駈下《かけお》りて、案内も乞《こ》わず、いきなり井戸辺《いどばた》に集まって我がちにと水を汲《く》んで呑《の》んだ。
すると二階の窓から正作が顔を出してこっちを見ている。僕はこれを見るや
「来ないか」と呼んだ。けれどもいつにないまじめくさった顔つきをして頭を横に振った。腕白のほうでも人並のことをしてのける桂正作、不思議と出てこないので、僕らもしいては誘わず、そのまままた山に駈登ってしまった。
騒ぎ疲《くた》ぶれて衆人《みんな》散々《ちりぢり》に我家へと帰り去り、僕は一人桂の宅《うち》に立寄った。黙って二階へ上がってみると、正作は「テーブル」に向かい椅子《いす》に腰をかけて、一心になって何か読んでいる。
僕はまずこの「テーブル」と椅子のことから説明しようと思う。「テーブル」というは粗末な日本机の両脚の下に続台《つぎだい》をした品物で、椅子とは足続《あしつ》ぎの下に箱を置いただけのこと。けれども正作はまじめでこの工夫をしたので、学校の先生が日本流の机は衛生に悪いといった言葉をなるほどと感心してすぐこれだけのことを実行したのである。そしてその後つねにこの椅子テーブルで彼は勉強していたのである。そのテーブルの上には教科書その他の書籍を丁寧《ていねい》に重ね、筆墨《ひつぼく》の類までけっして乱雑に置いてはない。で彼は日曜のいい天気なるにもかかわらず何の本か、脇目《わきめ》もふらないで読んでいるので、僕はそのそばに行って、
「何を読んでいるのだ」といいながら見ると、洋綴《ようとじ》の厚い本である。
「西国立志編《さいこくりっしへん》だ」と答えて顔を上げ、僕を見たその眼《まな》ざしはまだ夢の醒《さ》めない人のようで、心はなお書籍の中にあるらしい。
「おもしろいかね?」
「ウン、おもしろい」
「日本外史《にほんがいし》とどっちがおもしろい」と僕が問うや、桂は微笑《わらい》を含んで、ようやく我に復《かえ》り、いつもの元気のよい声で
「それやアこのほうがおもしろいよ。日本外史とは物が異《ちが》う。昨夜《ゆうべ》僕は梅田先生の処から借りてきてから読みはじめたけれどおもしろうて止められない。僕はどうしても一冊《いっさつ》買うのだ」といって嬉《うれ》しくってたまらない風であった。
その後桂はついに西国立志編を一冊買い求めたが、その本というは粗末至極な洋綴で、一度読みおわらないうちにすでにバラバラになりそうな代物《しろもの》ゆえ、彼はこれを丈夫《じょうぶ》な麻糸で綴じなおした。
この時が僕も桂も数え年の十四歳。桂は一度西国立志編の美味《うまみ》を知って以後は、何度この書を読んだかしれない、ほとんど暗誦するほど熟読したらしい、そして今日といえどもつねにこれを座右《ざゆう》に置いている。
げに桂正作は活《い》きた西国立志編といってよかろう、桂自身でもそういっている。
「もし僕が西国立志編を読まなかったらどうであったろう。僕の今日あるのはまったくこの書のお蔭《かげ》だ」と。
けれども西国立志編(スマイルスの自助論《セルフヘルプ》)を読んだものは洋の東西を問わず幾百万人あるかしれないが、桂正作のように、「余《よ》を作りしものはこの書なり」と明言しうる者ははたして幾人あるだろう。
天が与えた才能からいうと桂は中位の人たるにすぎない。学校における成績も中等で、同級生のうち、彼よりも優《すぐ》れた少年はいくらもいた。また彼はかなりの腕白者《わんぱくもの》で、僕らといっしょにずいぶん荒《あば》れたものである。それで学校においても郷党《きょうとう》にあっても、とくに人から注目せられる少年ではなかった。
けれども天の与えた性質からいうと、彼は率直で、単純で、そしてどこかに圧《おさ》ゆべからざる勇猛心を持っていた。勇猛心というよりか、敢為《かんい》の気象といったほうがよかろう。すなわち一転すれば冒険心となり、再転すれば山気《やまぎ》となるのである。現《げん》に彼の父は山気のために失敗し、彼の兄は冒険のために死んだ。けれども正作は西国立志編のお蔭で、この気象に訓練を加え、堅実なる有為《ゆうい》の精神としたのである。
ともかく、彼の父は尋常《じんじょう》の人ではなかった。やはり昔の武士で、維新の戦争にも出てひとかどの功をも立てたのである。体格は骨太《ほねぶと》の頑丈《がんじょう》な作り、その顔は眼《まな》ジリ長く切れ、鼻高く一見して堂々たる容貌《ようぼう》、気象も武人気質《ぶじんかたぎ》で、容易に物に屈しない。であるからもし武人のままで押通したならば、すくなくとも藩閥《はんばつ》の力で今日《こんにち》は人にも知られた将軍になっていたかもしれない。が、彼は維新の戦争から帰るとすぐ「農」の一字に隠れてしまった。隠れたというよりか出なおしたのである。そして「殖産《しょくさん》」という流行語にかぶれてついに破産してしまった。
桂家の屋敷は元来《もと》、町にあったのを、家運の傾むくとともにこれを小松山の下に運んで建てなおしたので、その時も僕の父などはこういっていた、あれほどのりっぱな屋敷を打壊《ぶちこわ》さないでそのまま人に譲《ゆず》り、その金でべつに建てたらよかろうと。けれども、桂正作の父の気象はこの一事《いちじ》でも解っている。小松山の麓《ふもと》に移ってこの方《かた》は、純粋の百姓になって正作の父は働いているのを僕はしばしば見た。
であるから正作が西国立志編を読み初めたころは、その家政はよほど困難であったに違いない。けれどもその家庭にはいつも多少の山気《やまぎ》が浮動していたという証拠《しょうこ》には、正作がある日僕に向かって、宅《うち》には田中鶴吉《たなかつるきち》の手紙があると得意らしく語《い》ったことがある。その理由《いわれ》は、桂の父が、当時世間の大評判であった田中鶴吉の小笠原《おがさわら》拓殖《たくしょく》事業《じぎょう》にひどく感服して、わざわざ書面を送って田中に敬意を表したところ、田中がまたすぐ礼状を出してそれが桂の父に届いたという一件、またある日正作が僕に向かい、今から何カ月とかすると蛤《はまぐり》をたくさんご馳走《ちそう》するというから、なぜだと聞くと、父が蛤の繁殖事業を初め、種を取寄せて浜に下ろしたから遠からず、この附近は蛤が非常に採れるようになると答えた。まずこれらの事で家庭の様子も想像することができるのである。
父の山気を露骨に受けついで、正作の兄は十六の歳《とし》に家を飛びだし音信不通、行方《ゆきがた》知れずになってしまった。ハワイに行ったともいい、南米に行ったとも噂《うわ》させられたが、実際のことは誰も知らなかった。
小学校を卒業するや、僕は県下の中学校に入ってしまい、しばらく故郷を離れたが正作は家政の都合《つごう》でそういうわけにゆかず、周旋《しゅうせん》する人があって某《なにがし》銀行に出ることになり給料四円か五円かで某町《なにがしまち》まで二里の道程《みちのり》を朝夕《ちょうせき》往復することになった。
間もなく冬期休課《ふゆやすみ》になり、僕は帰省の途について故郷近く車で来ると、小さな坂がある、その麓で車を下り手荷物を車夫に托し、自分はステッキ一本で坂を登りかけると、僕の五六間さきを歩《ゆ》く少年がある、身に古ぼけたトンビを着て、手に古ぼけた手提《てさげ》カバンを持って、静かに坂を登りつつある、その姿がどうも桂正作に似ているので、
「桂君じゃアないか」と声を掛けた。後ろを振り向いて破顔一笑《はがんいっしょう》したのはまさしく正作。立ち止まって僕をまち
「冬期休課《ふゆやすみ》になったのか」
「そうだ君はまだ銀行に通ってるか」
「ウン、通ってるけれどもすこしもおもしろくない」
「どうしてや?」と僕は驚いて聞いた。
「どうしてというわけもないが、君なら三日と辛棒《しんぼう》ができないだろうと思う。第一僕は銀行業からして僕の目的じゃないのだもの」
二人は話しながら歩いた、車夫のみ先へやり。
「何が君の目的だ」
「工業で身を立つる決心だ」といって正作は微笑し、「僕は毎日この道を往復しながらいろいろ考がえたが、発明に越す大事業はないと思う」
ワット[#「ワット」に傍線]やステブンソン[#「ステブンソン」に傍線]やヱヂソン[#「ヱヂソン」に傍線]は彼が理想の英雄である。そして西国立志編は彼の聖書《バイブル》である。
僕のだまって頷《うなず》くを見て、正作はさらに言葉をつぎ
「だから僕は来春《らいはる》は東京へ出ようかと思っている」
「東京へ?」と驚いて問い返した。
「そうサ東京へ。旅費はもうできたが、彼地《むこう》へ行って三月ばかりは食えるだけの金を持っていなければ困るだろうと思う。だから僕は父に頼んで来年の三月までの給料は全部僕が貰うことにした。だから四月早々は出立《たて》るだろうと思う」
桂正作の計画はすべてこの筆法である。彼はずいぶん少年にありがちな空想を描くけれども、計画を立ててこれを実行する上については少年の時から今日に至るまで、すこしも変わらず、一定の順序を立てて一歩一歩と着々実行してついに目的どおりに成就《じょうじゅ》するのである。むろんこれは西国立志編の感化でもあろう、けれども一つには彼の性情が祖父に似ているからだと思われる。彼の祖父の非凡な人であったことを今ここで詳しく話すことはできないが、その一つをいえば真書太閤記《しんしょたいこうき》三百巻を写すに十年計画を立ててついにみごと写しおわったことがある。僕も桂の家でこれを実見したが今でもその気根《きこん》のおおいなるに驚いている。正作はたしかにこの祖父の血を受けたに違いない。もしくはこの祖父の感化を受けただろうと思う。
途上種々の話で吾々二人は夕暮に帰宅し、その後僕は毎日のように桂に遇って互いに将来の大望《アンビション》を語りあった。冬期休暇《ふゆやすみ》が終りいよいよ僕は中学校の寄宿舎に帰るべく故郷を出立する前の晩、正作が訪ねてきた。そしていうには今度会うのは東京だろう。三四年は帰郷しないつもりだからと。僕もそのつもりで正作に離別《わかれ》を告げた。
明
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