治二十七年の春、桂は計画どおりに上京し、東京から二三度手紙を寄こしたけれど、いつも無事を知らすばかりでべつに着京後の様子を告げない。また故郷《くに》の者誰もどうして正作が暮らしているか知らない、父母すら知らない、ただ何人も疑がわないことが一つあった。曰《いわ》く桂正作は何らかの計画を立ててその目的に向かって着々歩を進めているだろうという事実である。
僕は三十年の春上京した。そして宿所《やど》がきまるや、さっそく築地何町何番地、何の某方《なにがしかた》という桂の住所を訪ねた。この時二人はすでに十九歳。
下
午後三時ごろであった。僕は築地何町を隅から隅まで探して、ようやくのことで桂の住家《すみか》を探しあてた。容易に分からぬも道理、某方《なにがしかた》というその某は車屋の主人ならんとは。とある横町の貧しげな家ばかり並んでいる中に挾《はさ》まって九尺間口の二階屋、その二階が「活《い》ける西国立志編」君の巣である。
「桂君という人があなたの処にいますか」
「ヘイいらっしやいます、あの書生さんでしょう」との山の神の挨拶《あいさつ》。声を聞きつけてミシミシと二階を下りてきて「ヤア」と現われたのが、一別《いちべつ》以来三年会わなんだ桂正作である。
足も立てられないような汚い畳《たたみ》を二三枚歩いて、狭い急な階子段《はしごだん》を登り、通された座敷は六畳敷、煤《すす》けた天井《てんじょう》低く頭を圧し、畳も黒く壁も黒い。
けれども黒くないものがある。それは書籍。
桂ほど書籍を大切にするものはすくない。彼はいかなる書物でもけっして机の上や、座敷の真中に放擲《ほうてき》するようなことなどはしない。こういうと桂は書籍ばかりを大切にするようなれどかならずしもそうでない。彼は身の周囲《まわり》のものすべてを大事にする。
見ると机もかなりりっぱ。書籍箱もさまで黒くない。彼はその必要品を粗略《そりゃく》にするほど、東洋|豪傑風《ごうけつふう》の美点も悪癖《あくへき》も受けていない。今の流行語でいうと、彼は西国立志編の感化を受けただけにすこぶるハイカラ的である。今にして思う、僕はハイカラの精神の我が桂正作を支配したことを皇天《こうてん》に感謝する。
机の上を見ると、教科書用の書籍そのほかが、例のごとく整然として重ねてある。その他周囲の物すべてが皆なその処を得て、キチン
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