疲労
国木田独歩
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)三十間堀《さんじっけんぼり》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)京橋区|三十間堀《さんじっけんぼり》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#底本では句読点なし。20−8]
−−
京橋区|三十間堀《さんじっけんぼり》に大来館《たいらいかん》という宿屋がある、まず上等の部類で客はみな紳士紳商、電話は客用と店用と二種かけているくらいで、年じゅう十二三人から三十人までの客があるとの事。
ある年の五月半ばごろである。帳場にすわっておる番頭の一人《ひとり》が通りがかりの女中を呼んで、
「お清《きよ》さん、これを大森さんのとこへ持っていって、このかたが先ほど見えましたがお留守だと言って断わりましたって……」
と一枚の小形の名刺を渡した。お清はそれを受けとって梯子段《はしごだん》を上がった。
午後二時ごろで、たいがいの客は実際不在であるから家内《やうち》しんとしてきわめて静かである。中庭の青桐《あおぎり》の若葉の影が拭《ふ》きぬいた廊下に映ってぴかぴか光っている。
北の八番の唐紙《からかみ》をすっとあけると中に二人《ふたり》。一人は主人の大森|亀之助《かめのすけ》。一人は正午《ひる》前から来ている客である。大森は机に向かって電報用紙に万年筆《まんねんぴつ》で電文をしたためているところ、客は上着を脱いでチョッキ一つになり、しきりに書類を調べているところ、煙草盆《たばこぼん》には埃及煙草《エジプト》の吸いがらがくしゃくしゃに突きこんである。
大森は名刺を受けとってお清の口上をみなまで聞かず、
「オイ君、中西が来た!」
「そしてどうした?」
「いま君が聞いたとおりサ、留守だと言って帰したのだ。」
「そいつは弱った。」
「彼奴《きゃつ》一週間後でなければ上京《で》られないと言って来たから、帳場に彼奴《きゃつ》のことを言っておかなかったのだ。まアいいサ、上京《で》て来てくれたに越したことはない。これから二人で出かけよう。」
頭の少しはげた、でっぷりとふとった客は「ウン」と言ったぎり黄金縁《きんぶち》めがねの中で細い目をぱちつかして、鼻下《びか》のまっ黒なひげを右手《めて》でひねくりながら考えている。それを見て大森は煙草《たばこ》を取って煙草盆をつつきな
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング