を着たままで、別に着更えもない様な様である。六畳の座敷の一畳は階子段に取られて居るから実は五畳敷の一室に、戸棚がない位だから、床もなければ小さな棚一つもない。
 天井は低く畳は黒く、窓は西に一間の中窓がある計り東のは真実《ほんと》の呼吸《いき》ぬかしという丈けで、室のうち何処となく陰鬱で不潔で、とても人の住むべき処でない。
 簿記函と書《かい》た長方形の箱が鼠入らず[#「鼠入らず」に傍点]の代をしている、其上に二合入の醤油徳利《しょうゆどくり》と石油の鑵とが置《おい》てあって、箱の前には小さな塗膳があって其上に茶椀小皿などが三ツ四ツ伏せて有る其横に煤《くす》ぼった凉炉《しちりん》が有って凸凹《でこぼこ》した湯鑵《やかん》がかけてある。凉炉と膳との蔭に土鍋が置いて有《あっ》て共に飯匕《しゃもじ》が添えて有るのを見れば其処らに飯桶《おはち》の見えぬのも道理である。
 又た室の片隅に風呂敷包が有って其傍に源三郎の学校道具が置いてある。お秀の室の道具は実にこれ限《だけ》である。これだけがお秀の財産である。其外源三郎の臥て居る布団というのは見て居るのも気の毒なほどの物で、これに姉と弟とが寝るのである。この有様でもお秀は妾になったのだろうか、女の節操《みさお》を売《うっ》てまで金銭が欲《ほし》い者が如何して如此《こん》な貧乏《まず》しい有様だろうか。
「江藤さん、私は決して其様《そん》なことは真実《ほんと》にしないのよ。しかし皆なが色々《いろん》なことを言っていますから或《もしや》と思ったの。怒っちゃ宜《いけ》ないことよ、」とお富の声も震えて左も気の毒そうに言った。
「否《いゝ》エ、怒るどころか、貴姉《あなた》宜く来て下すって真実《ほんと》に嬉れしう御座います、局の人が色々なことを言っているのは薄々知っていましたが、私は無理はないと思いますわ……」と、
 さも悲しげにお秀は言って、ほっと嘆息を吐いた。
「何故《なぜ》。私は口惜《くやし》いことよ、よく解りもしないことを左も見て来たように言いふらしてさ。」
「私だって口惜いと思わないことはないけエど、あんな人達が彼是れ言うのも尤ですよ、貴姉……祖母《おばあ》さんね…」
とお秀は口籠《くちごも》った、そしてじっとお富の顔を見た目は湿んでいた。
「祖母さんが何とか言ったのでしょう……真実《ほんと》に貴姉はお可哀そうだよ……」とお富の眼も涙含んだ。
「祖母さんのことだから他の人には言えないけれど……そら先達貴姉の来ていらしゃった時、祖母さんがあんな妙なことを言ったでしょう。処が十日ばかり前に小石川《こいしがわ》から来て私に妾になれと言わないばかりなのよ、あのお前の思案《かんがえ》一つでお梅や源ちゃんにも衣服《きもの》が着せてやられて、甘味《おいしい》ものが食べさされるッて……」
「それで妾になれって?」お富は眼※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶち》を袖で摩って丸い眼を大きくして言った。
「否《いゝ》エ妾になれって明白《はっきり》とは言わないけれど、妾々ッて世間で大変悪く言うが芸者なんかと比較《くらべ》ると幾何《いくら》いいか知れない、一人の男を旦那にするのだからって……まあ何という言葉でしょう……私は口惜くって堪りませんでしたの。矢張身を売るのは同じことだと言いますとね、祖母さんや同胞《きょうだい》のために身を売るのが何が悪いッて……」
「まア其様《そんな》なことを!」
「実《じつ》、私も困り切《きっ》ているに違いないけエど、いくら零落《おちぶれ》ても妾になぞ成る気はありませんよ私には。そんな浅間しいことが何で出来ましょうか。祖母さんに、どんな事が有ッても其様《そん》な真似は私はしない、私のやれる丈けやって妹と弟の行末を見届けるから心配して下さるなと言切って其時あんまり口惜かったから泣きましたのよ。それからね寧《いっそ》のこと針仕事の方が宜いかと思って暫時《しばらく》局を欠勤《やす》んでやって見たのですよ。しかし此頃に成って見ると矢張仕事ばかりじゃア、有る時や無い時が有って結極《つまり》が左程の事もないようだし、それに家にばかりいるとツイ妹や弟の世話が余計焼きたくなって思わず其方《それ》に時間を取られるし……ですから矢張半日ずつ、局に出ることに仕ようかとも思って居たところなんですよ。」
「そしてお梅さんはどうなすって?」とお富は不審《ふしぎ》そうに尋ねた。
「ですから、今の処、とても私一人の腕で三人はやりきれない! 小石川の方へも左迄は請求《たのま》れないもんですから、お梅だけは奉公に出すことにして、丁度|一昨々日《さきおととい》か先方《むこう》へ行きましたの。」
「まあ何処へなの?」
「じき其処なの、日蔭町《ひかげちょう》の古着屋なの。」
「おさんどんですか。」
「ハア。」
「まあ可哀そうに、やっと十五でしょう?」
「私も可哀そうでならなかったけエど、つまり私の傍に居た処が苦しいばかりだし、又た結局《つまり》あの人も暫時《しばらく》は辛《つら》い目に遇《あっ》て生育《そだ》つのですから今時分から他人の間に出るのも宜かろうと思って、心を鬼にして出してやりました、辛抱が出来ればいいがと思って、……それ源ちゃんは斯様《こんな》だし、今も彼の裁縫《しごと》しながら色々《いろん》なことを思うと悲しくなって泣きたく成《なっ》て来たから、口のうちで唱歌を歌ってまぎらしたところなの。」
「そして貴姉、矢張局にお出《いで》なさいな。その方が宜いでしょうよ。それに局に出て多忙《いそがし》い間だけでも苦労を忘れますよ」とお富は真面目にすすめた。お秀は嘆息ついて、そして淋びしそうな笑を顔に浮かべ、
「ほんに左様《そう》ですよ、人様のお話の取次をして何番々々と言って居るうちに日が立ちますからねエ」と言って「おほほほほ」と軽く笑う。「女の仕事はどうせ其様《そん》なものですわ、」とお富も「おほほほほ」と笑ッた。そしてお秀は何とも云い難《にく》い、嬉しいような、哀れなような、頼もしいような心持がした。
 兎も角も明後日《あさって》からお秀は局に出ることに話を極めてお富に約束したものの、忽ち衣類《きもの》の事に思い当って当惑した。若い女ばかり集まる処だからお秀の性質でもまさかに寝衣《ねまき》同様の衣服《きもの》は着てゆかれず、二三枚の単物は皆な質物《しち》と成っているし、これには殆ど当惑したお富は流石女同志だけ初めから気が付いていた。お秀の当惑の色を見て、
「気に障《さ》えちゃいけないことよ、あの……」
「何に、どうにか致しますよ」とお秀は少し顔を赤らめて、「おほほほほ」と笑った。
「だってお困りでしょう? 明日《あした》私が局から帰ったら母上《おっか》さんと相談して……四時頃又来ましょうよ。」
「あんまりお気の毒さまで……」
 お秀は眼に涙一杯含ませて首を垂れた。お富は何とも言い難い、悲しいような、懐かしいような心持がした。
 夜が大分更けたようだからお富は暇を告げて立ちかけた時、鈴虫の鳴く音が突然|室《へや》のうちでした。
「オヤ鈴虫が」とお富は言って見廻わした。
「窓のところに。お梅さんが先達《せんだっ》て琴平《こんぴら》で買って来たのよ、奉公に出る時|持《もっ》てゆきたいって……。」
「まだ小供ですもの、ねえ」とお富は立《たっ》て二人は暗い階段《はしごだん》を危なそうに下《お》り、お秀も一所に戸外《そと》へ出た。月は稍や西に傾いた。夜は森《しん》と更けて居《い》る。
「そこまで送りましょう。」
「宜いのよ、其処へ出ると未だ人通りが沢山あるから」とお富は笑って、
「左様なら、源ちゃんお大事に、」と去《ゆ》きかける。
「御壕の処まで送りましょうよ、」とお秀は関《かま》わず同伴《いっしょ》に来る。二人の少女《むすめ》の影は、薄暗いぬけろじの中に消えた。
 ぬけろじの中程が恰度、麺包屋《ぱんや》の裏になっていて、今二人が通りかけると、戸が少し開《あい》て居て、内で麺包を製造《つく》っている処が能く見える。其|焼《やき》たての香《こうば》しい香《におい》が戸外《そと》までぷんぷんする。其焼く手際が見ていて面白いほどの上手である。二人は一寸《ちょ》と立《たっ》てみていた、
「お美味《いし》そうねエ」とお富は笑って言った。
「明朝のを今|製造《こしら》えるのでしょうねエ」とお秀も笑うて行こうとする、
「ちょっと御待ちなさいよ」とお富は止めて、戸外《そと》から、
「その麺包を少し下さいな。」
 三十計りの男と十五位な娘とが頻に焼《やい》ていたが、驚《おどろい》て戸外《そと》の方を向いた。
「お幾価《いくら》?」
 娘は不精無精に立った。
「お気の毒さま、これ丈け下さいな、」とお富は白銅|一個《ひとつ》を娘に渡すと、娘は麺包を古新聞に包んで戸の間から出した。
「源ちゃんにあげて下さいな、今夜焼きたてが食べさせたいことねエ、そら熱いですよ。」とお秀に渡す。
「まあお気の毒さまねエ、明朝《あす》のお目覚《めざ》にやりましょう。」
 二人はお壕|辺《ばた》の広い通りに出た。夜が更けてもまだ十二時前であるから彼方此方《あちらこちら》、人のゆききがある。月はさやかに照《てり》て、お壕の水の上は霞んでいる。
「左様なら、又た明日《あした》。お寝みなさい、源ちゃん御大事に。」お富はしとやかに辞儀して去《ゆ》こうとした。
「どうも色々有難う御座いました。お母上《っかさん》にも宜しく……それでは明日《あす》。」
 二人は分れんとして暫時《しばらく》、立止った。
「あア、明日《あす》お出《いで》になる時、お花を少し持《もっ》て来て下さいませんか、何んでも宜いの。仏様にあげたいから」
 とお秀は云い悪《に》くそうに言った。
「此頃は江戸菊《えどぎく》が大変よく咲《さい》ているのよ、江戸菊を持《もっ》て来ましょうねエ。」とお富は首をちょっと傾《かし》げてニコリと笑って。
「貴姉の処に鈴虫が居て?」
「否《いゝ》エ、どうして?」
「梅ちゃんの鈴虫が此頃大変鳴かないようになって、何だか死にそうですから、どうしたら宜いかと思って。」
「そう、胡瓜をやって?」
「ハア、それで死にそうなのよ」
 と言ってる処へ、巡査が通り掛って二人の様子を怪しそうに見て去った。二人は驚いて、
「左様なら……」
「左様なら……急いでお帰んなさいよ……。」
 お富はカラコロカラコロと赤坂の方へ帰ってゆく、お秀はじっと其後影を見送《みおくっ》て立《たっ》て居た。(完)
[#地から2字上げ](発表年月不詳「濤声」より)



底本:「日本プロレタリア文学大系 序」三一書房
   1955(昭和30)年3月31日第1版発行
   1961(昭和36)年6月20日第2刷発行
※底本に見る旧仮名の新仮名への直し漏れは、あらためた上で注記した。
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2001年12月27日公開
2004年7月8日修正
青空文庫作成ファイル:
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