ら局に通って、午前出の時は午後を針仕事に、午後出の時は午前を針仕事に、少しも安息《やす》む暇がないうちにも弟を小学校に出し妹に自分で裁縫の稽古をしてやり、夜は弟の復習《さらえ》も験《み》てやらねばならず、炊事《にたき》から洗濯から皆な自分一人の手でやっていた。
 其うち物価《もの》は次第《だん/″\》高くなり、お秀三人の暮《くらし》は益々困難に成って来た。如何《どう》するだろうと内々《ない/\》局の朋輩も噂していた程であったが、お秀は顔にも出さず、何時も身の周囲《まわり》小清潔《こざっぱり》として左まで見悪《みにく》い衣装《なり》もせず、平気で局に通っていたから、奇怪《おかし》なことのように朋輩は思って中には今の世間に能くある例を引《ひい》て善くない噂を立てる連中もあった。
 すると一月半ばかり前からお秀は全然《ぱったり》局に出なくなった。初は一週間の病気届、これは正規で別に診断書が要《い》らない、其次は診断書が付《つい》て五週間の欠勤。其内五週間も経《たっ》た、お秀は出て来ないのみならず、欠勤届すら出さない。いよいよ江藤さんは妾になったという噂が誰の口からともなく起って、朋輩の者皆んな喧噪《やかまし》く騒ぎ立てた、遂に係の技手の耳に入《はい》った。そこで技手の平岡《ひらおか》[#ルビの「ひらおか」は底本では「ひらをか」]は田川お富に頼んで、お秀の現状《ありさま》を見届けた上、局を退《ひ》くとも退かぬとも何とか決めて呉れろと伝言《つたえ》さしたのである。お富は朋輩の中でもお秀とは能く気の合《あっ》て親密《した》しい方であるからで。
 しかしお秀が局を欠勤《やすん》[#ルビの「やすん」は底本では「やす」]でから後も二三度会って多少|事情《わけ》を知って居る故、かの怪しい噂は信じなかったが、此頃になって、或《もしや》という疑が起らなくもなかった。というのもお秀の祖母という人が余り心得の善い人でないことを兼ねて知っているからで。
 お富はお秀の様子を一目見て、もう殆ど怪しい疑惑《うたがい》は晴れたが、更らに其室のうちの有様を見てすっかり解かった。
 お秀の如何に困って居るかは室のうちの様子で能く解る。兼ねて此部屋には戸棚というものが無いからお秀は其衣類を柳行李|二個《ふたつ》に納めて室《へや》の片隅に置《おい》ていたのが今は一個《ひとつ》も見えない、そして身には浴衣の洗曝を着たままで、別に着更えもない様な様である。六畳の座敷の一畳は階子段に取られて居るから実は五畳敷の一室に、戸棚がない位だから、床もなければ小さな棚一つもない。
 天井は低く畳は黒く、窓は西に一間の中窓がある計り東のは真実《ほんと》の呼吸《いき》ぬかしという丈けで、室のうち何処となく陰鬱で不潔で、とても人の住むべき処でない。
 簿記函と書《かい》た長方形の箱が鼠入らず[#「鼠入らず」に傍点]の代をしている、其上に二合入の醤油徳利《しょうゆどくり》と石油の鑵とが置《おい》てあって、箱の前には小さな塗膳があって其上に茶椀小皿などが三ツ四ツ伏せて有る其横に煤《くす》ぼった凉炉《しちりん》が有って凸凹《でこぼこ》した湯鑵《やかん》がかけてある。凉炉と膳との蔭に土鍋が置いて有《あっ》て共に飯匕《しゃもじ》が添えて有るのを見れば其処らに飯桶《おはち》の見えぬのも道理である。
 又た室の片隅に風呂敷包が有って其傍に源三郎の学校道具が置いてある。お秀の室の道具は実にこれ限《だけ》である。これだけがお秀の財産である。其外源三郎の臥て居る布団というのは見て居るのも気の毒なほどの物で、これに姉と弟とが寝るのである。この有様でもお秀は妾になったのだろうか、女の節操《みさお》を売《うっ》てまで金銭が欲《ほし》い者が如何して如此《こん》な貧乏《まず》しい有様だろうか。
「江藤さん、私は決して其様《そん》なことは真実《ほんと》にしないのよ。しかし皆なが色々《いろん》なことを言っていますから或《もしや》と思ったの。怒っちゃ宜《いけ》ないことよ、」とお富の声も震えて左も気の毒そうに言った。
「否《いゝ》エ、怒るどころか、貴姉《あなた》宜く来て下すって真実《ほんと》に嬉れしう御座います、局の人が色々なことを言っているのは薄々知っていましたが、私は無理はないと思いますわ……」と、
 さも悲しげにお秀は言って、ほっと嘆息を吐いた。
「何故《なぜ》。私は口惜《くやし》いことよ、よく解りもしないことを左も見て来たように言いふらしてさ。」
「私だって口惜いと思わないことはないけエど、あんな人達が彼是れ言うのも尤ですよ、貴姉……祖母《おばあ》さんね…」
とお秀は口籠《くちごも》った、そしてじっとお富の顔を見た目は湿んでいた。
「祖母さんが何とか言ったのでしょう……真実《ほんと》に貴姉はお可哀そうだよ……」とお富の眼
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