ん最早《もう》お寝み、」と客の少女は床なる九歳《ここのつ》ばかりの少年を見て座わり乍ら言って、其のにこやかな顔に笑味を湛えた。
「姉さん、氷!」と少年は額を少し挙げて泣声で言った。
「お前、そう氷を食べて好いかね。二三日前から熱が出て困って居るんですよ。源ちゃんそら氷。」
 主人の少女は小さな箱から氷の片《かけ》を二ツ三ツ、皿に乗せて出して、少年の枕頭《まくらもと》に置《おい》て、「もう此限《これぎり》ですよ、また明日《あした》買ってあげましょうねエ」
「風邪でもおひきなさったの!」と客なる少女は心配そうに言った。
「もう快々《いゝ》んですよ。熱いこと、少し開けましょねエ」と主人の少女は窓の障子を一枚開け放した。今まで蒸熱かった此|一室《ひとま》へ冷たい夜風《よかぜ》が、音もなく吹き込むと「夜風に当ると悪いでしょうよ、私《わたし》は宜いからお閉めなさいよ、」と客なる少女、少年の病気を気にする。
「何に、少しは風を通さないと善くないのよ。御用というのは欠勤届のことでしょう、」と主人の少女は額から頬へ垂れかかる髪《け》をうるさそうに撫であげながら少し体駆《からだ》を前に屈《かが》めて小声で言った。
「ハア、あの五週間の欠勤届の期限が最早きれたから何とか為さらないと善《い》けないッて、平岡さんが、是非今日私に貴姉《あなた》のことを聞いて呉れろッて、……明朝《あした》は私が午前出だもんだから……」
「成程そうですねェ、真実《ほんと》に私は困まッちまッたねエ、五週間! もう其様《そんな》になったろうか、」と主人の少女は嘆息《ためいき》をして、「それで平岡さんが何とか言って?」
「イイエ別に何ともお仰《っしゃ》らないけエど、江藤さんは最早《もう》局を止すのだろうかって。貴姉どうなさるの。」
「ソー、夫れで実は私も迷っているのよ」と主人の少女は嘆息をついた。
 客の少女は密《そっ》と室内を見廻した。そして何か思い当ることでも有るらしく今まで少し心配そうな顔が急に爽々《さえ/″\》して満面の笑味《えみ》を隠し得なかったか、ちょッとあらたまって、
「実は少々貴姉に聞《きい》て見ることがあるのよ、」
 と一段小声で言った。
「何に?」と主人の少女も笑いながら小声で言った。これも何か思い当る処あるらしく、客なる少女の顔をじっと見て、又た密《そっ》と傍の寝床を見ると、少年は両腕《うで》を捲《まく》り出したまま能く眠っている、其手を静に臥被《ふとん》の内に入れてやった。
「怒《おこっ》ちゃ善《い》けないことよ」と客の少女はきまり悪るそうに笑って言出し兼ねている。
「凡そ知ッているのよ、言《いっ》て御覧なさい、怒りも何《なに》もしないから。お可笑《かし》な位よ、」と言う主人の少女の顔は羞恥《はずかし》そうな笑のうちにも何となく不穏のところが見透かされた。
「私の口から言い悪くいけれど……貴姉大概解かっていましょう……」
「私が妾になるとか成ったとかいう事なんでしょう。」
 と言った主人の少女の声は震えて居た。

        下

 此二人の少女は共に東京電話交換局《とうきょうでんわこうくわんきょく》[#ルビの「とうきょう」は底本では「とうきゃう」]の交換手であって、主人の少女は江藤《えとう》お秀《ひで》という、客の少女は田川《たがわ》[#ルビの「たがわ」は底本では「たがは」]お富《とみ》といい、交換手としては両人《ふたり》とも老練の方であるがお秀は局を勤めるようになった以来、未だ二年許りであるから給料は漸と十五銭であった。
 お秀の父は東京府《とうきょうふ》に勤めて三十五円ばかり取って居て夫婦の間にお秀を長女《かしら》としてお梅《うめ》源三郎《げんざぶろう》の三人の児を持《もっ》て、左まで不自由なく暮らしていた。夫れでお秀も高等小学校を卒えることが出来、其後は宅《うち》に居て針仕事の稽古のみに力を尽す傍《かたわら》、読書をも勉めていたが恰度三年前、母が病《やみ》ついて三月目に亡くなって、夫れを嘆く間もなく又た父が病床《とこ》に就くように成りこれも二月ばかりで母の後を逐い、三人の児は半歳のうちに両親《ふたおや》を失って忽ち孤児《みなしご》となった。そうして殆《ほとん》ど丸裸体の様で此世に残された。
 そこで一人の祖母は懇意な家で引うけることになり、お秀は幸い交換局の交換手を募《つのっ》て居たから直ぐ局に勉《つと》めるようになって、妹と弟は兎も角お秀と一所に暮していた。それも多少《すこし》は祖母を引うけた家から扶助《みつい》でもらって僅かに糊口《くらし》を立てていたので、お秀の給料と針仕事とでは三人の口はとても過活《すぐ》されなかった。しかしお秀の労働《ほねおり》は決して世の常の少女の出来る業ではなかった。あちら此方と安値《やす》そうな間を借りては其処か
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