いる。
「江藤さん、」と返事が無いから、少女は今一度、やはり小声で呼んだ。
障子がすっと開いたかと思うと、年若い姿が腰から上を現わして、
「誰《どな》た?」
「私《わたし》。」
「オヤ、田川《たがわ》さん。」
「少し用事が有《あっ》て来たのよ、最早《もう》お寝《やすみ》?」
「オヤそう、お上がんなさいよ、でも未だ十時が打たないでしょう。」
「晩《おそ》く来てお気の毒様ねエ」と少女は少しもじもじして居る。
二階の女の姿が消えると間もなく、下の雨戸を開ける音がゴトゴトして、建付《たてつけ》の曲《ゆが》んだ戸が漸《やっ》と開いた。
「オヤ好い月だね、田川さんお上がんなさいよ」という女は今年十九、歳には少し老けて見ゆる方なるがすらりとした姿の、気高い顔つき、髪は束髪に結んで身には洗曝《あらいざらし》の浴衣を着けて居る。
「ちょっと平岡《ひらおか》さんに頼まれて来た用があるのよ、此処でも話せますよ、もう遅いもの、上ると長座《ながく》なるから。……」と今来た少女は言って、笑を含《ふくん》んでいる。それで相手《あいて》の顔は見ないで、月を仰《あおい》だ目元は其丸顔に適好《ふさわ》しく、品の好い愛嬌のある小躯《こがら》の女である。
「用というのは大概解って居ますが、色々話もあるから一寸お上んなさいよ。」
「そう、あの局の帰りに来ると宜《いゝ》んだけど、家に急ぐ用が有ったもんだから……」
といい乍ら二人は中に入《はい》った。
入ると直ぐ下駄直しの仕事場で、脇の方に狭い階段《はしごだん》が付ていて、仕事場と奥とは障子で仕|切《きっ》てある。其障子が一枚|開《あ》かっていたが薄闇くって能く内が見えない。
「遅く来《あが》って御気毒様、」と来た少女は軽《かろ》く言った、奥に向《むかっ》て。
「どう致しまして、」と奥で嗄《しわがれ》た声がして、続《つゞい》て咳嗽《せき》がして、火鉢の縁をたたく煙管《きせる》の音が重く響いた。
「この乱暮さを御覧なさい、座る所もないのよ。」と主人《あるじ》の少女はみしみしと音のする、急な階段を先に立《たっ》て陞《のぼ》って、
「何卒《どう》ぞ此処へでも御座《おす》わんなさいな。」
と其処らの物を片付けにかかる。
「すこし頼まれた仕事を急いでいますからね、……源《げん》ちゃん、お床を少し寄せますよ。」
「いいのよ、其様《そう》してお置きなさいよ、源ちゃ
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