四
大船《おほふな》に着《つ》くや老夫婦《としよりふうふ》が逸早《いちはや》く押《おし》ずしと辨當《べんたう》を買《か》ひこんだのを見《み》て自分《じぶん》も其《その》眞似《まね》をして同《おな》じものを求《もと》めた。頸筋《くびすぢ》は豚《ぶた》に似《に》て聲《こゑ》までが其《それ》らしい老人《らうじん》は辨當《べんたう》をむしやつき[#「むしやつき」に傍点]、少《すこ》し上方辯《かみがたべん》を混《ま》ぜた五十|幾歳位《いくさいぐらゐ》の老婦人《らうふじん》はすし[#「すし」に傍点]を頬張《ほゝば》りはじめた。
自分《じぶん》は先《ま》づ押《おし》ずし[#「ずし」に傍点]なるものを一つ摘《つま》んで見《み》たが酢《す》が利《き》き過《す》ぎてとても喰《く》へぬのでお止《や》めにして更《さら》に辨當《べんたう》の一|隅《ぐう》に箸《はし》を着《つ》けて見《み》たがポロ/\飯《めし》で病人《びやうにん》に大毒《だいどく》と悟《さと》り、これも御免《ごめん》を被《かうむ》り、元來《ぐわんらい》小食《せうしよく》の自分《じぶん》、別《べつ》に苦《く》にもならず總《すべ》てを義母《おつかさん》にお任《まかせ》して茶《ちや》ばかり飮《の》んで内心《ないしん》一の悔《くい》を懷《いだ》きながら老人夫婦《としよりふうふ》をそれとなく觀察《くわんさつ》して居《ゐ》た。
『何故《なぜ》「ビールに正宗《まさむね》……」の其《その》何《いづ》れかを買《か》ひ入《い》れなかつたらう』といふが一《ひとつ》の悔《くい》である。大船《おほふな》を發《はつ》して了《しま》へば最早《もう》國府津《こふづ》へ着《つ》くのを待《ま》つ外《ほか》、途中《とちゆう》何《なに》も得《う》ることは出來《でき》ないと思《おも》ふと、淺間《あさま》しい事《こと》には猶《な》ほ殘念《ざんねん》で堪《たま》らない。
『酒《さけ》を買《か》へば可《よ》かつた。惜《を》しいことを爲《し》た』
『ほんとに、さうでしたねえ』と誰《だれ》か合槌《あひづち》を打《うつ》て呉《く》れた、と思《おも》ふと大違《おほちがひ》の眞中《まんなか》。義母《おつかさん》は今《いま》しも下《した》を向《むい》て蒲鉾《かまぼこ》を食《く》ひ欠《か》いで居《を》らるゝ所《ところ》であつた。
大磯《おほいそ》近《ちか》くなつ
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