然《しか》し少年《こども》は見向《みむ》きもしないし手《て》も伸《のば》さないばかりか、木實《このみ》が身體《からだ》の傍《そば》に落《お》ちてすら頭《あたま》もあげなかつた。ラクダルは此《こ》の樣《さま》をぢろり横目《よこめ》で見《み》たが、默《だま》つて居《ゐ》た。
斯《か》ういふ風《ふう》で一|時間《じかん》たち二|時間《じかん》經《た》つた。氣《き》の毒《どく》千萬《せんばん》なのは親父《おやぢ》さんで、退屈《たいくつ》で/\堪《たま》らない。しかしこれも我兒《わがこ》ゆゑと感念《かんねん》したか如何《どう》だか知《しら》んが辛棒して其《その》まゝ坐《すわ》つて居《ゐ》た。身動《みうごき》もせず熟《じつ》として兩足を組《くん》で坐《すわ》つて居《ゐ》ると、園《その》を吹渡《ふきわた》る生温《なまぬ》くい風《かぜ》と、半分|焦《こげ》た芭蕉の實や眞黄色《まつきいろ》に熟《じゆく》した柑橙《だい/\》の香《かほり》にあてられて、身《み》も融《とけ》ゆくばかりになつて來《き》たのである。
やゝ暫《しばら》くすると大きな無花果の實《み》が少年《こども》の頬《ほゝ》の上に落《お》ちた。見《み》るからして菫《すみれ》の色《いろ》つやゝかに蜜《みつ》のやうな香《かほり》がして如何《いか》にも甘味《うま》さうである。少年《こども》がこれを口に入《いれ》るのは指《ゆび》一本《いつぽん》動《うご》かすほどのこともない、然《しか》し左《さ》も疲《つか》れ果《はて》て居《ゐ》る樣《さま》で身動《みうごき》もしない、無花果《いちじく》は頬《ほゝ》の上《うへ》にのつたまゝである。
暫《しばら》くは其《その》まゝで居《ゐ》たが遂《つひ》に辛棒《しんぼう》しきれなくなり、少年《こども》[#「少年」は底本では「小年」]は眄目《ながしめ》に父《ちゝ》を見て、鈍《にぶ》い聲《こゑ》で
『父《とつ》さん――父《とつ》さん、これを口《くち》へ入れて下《くだ》さいよう。』
これを聞《き》くや否《いな》や、ラクダルは手《て》に持《もつ》て居《ゐ》た無花果《いちじく》を力任《ちからま》かせに投《な》げて怫然《ふつぜん》と親父《おやぢ》の方《かた》に振《ふ》り向《む》き
『此兒《このこ》を私《わたし》の弟子《でし》にするといふのですか貴樣《あなた》は? 途方《とはう》もないこと、此兒《このこ》が私《わたし》の師匠《しゝやう》だ、私《わたし》が此兒《このこ》に習《なら》いたい位《くらゐ》だ!』
そして卒然《いきなり》起上《おきあ》がつて少年《こども》の前に跪《ひざまづ》き頭《あたま》を大地《だいち》に着《つ》けて
『謹で崇《あが》め奉《たてまつ》る、怠惰《なまけ》の神様《かみさま》!』
底本:『国木田独歩全集 第四巻』学習研究社
1966(昭和41)年2月10日発行
入力:小林徹
校正:柳沢成雄
1999年2月9日公開
2004年5月26日修正
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